☆加藤のウラナミ『THE NIIJIMA LIFEGUARD』

☆加藤

☆加藤
会社代表であり、波乗りと海が大好きなサーファーです。子どもたちに安全安心な海を残すことと、島国などへ高精細な気象情報を提供することを残る人生のライフワークにしました。サーフトリップネタが多くなりますがお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

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私にとって、サーフィンとライフセービングの長きにわたる経験は、掛けがえのないものとなりました。
今から30年以上も前の伊豆七島『新島』の話になりますが、当時は“丸井”がスポンサードして、今でいうASPWTクラスのプロの世界大会が毎年開催されていました。新島羽伏浦のサンドバーは完璧で、風さえ合えば、世界に誇るスピッツが噴き出すバレルカインドのパワフルな波がさく裂していて、世界中から集まるプロサーファーらを魅了して止みませんでした。
黒潮が島の周囲を流れているため、水の透明度は抜群で、また、世界でイタリアのシチリア島とこの新島でしか採取できないガラス工芸の原料にもなる抗火石(こうがせき)は、その色が白いために、世界に誇れる美しいエメラルドグリーンの海とパワフルなバレル、そして真っ白なビーチとのコントラストが素晴らしく、訪れる観光客を魅了し続けてきました。
その新島のライフセービングの歴史は40年以上と長いうえに、羽伏浦海岸で泳ぐ海水浴客のガードはもちろんのこと、サーフィンを楽しむサーファーのガードもしてきたところが素晴らしく、ハワイ、オーストラリアにも負けない体制を築いてきたと言えます。

しかし、今から30年以上前は、新島にライフセーバーはいず、サーファーを中心に公募して採用された監視員が配置されていました。1960年代から続く離島ブームで、日本中から若者が集まりナンパの島として大ブレイクしていたため、監視員の中には双眼鏡で海をウォッチしつつも、ついついビキニの女の子をチェックしたり、今では考えられませんが勝手に持ち場を離れてサーフィンしていることもあったそうです。
1987年夏のことですが、毎年事故の発生に頭を悩ませてきた新島村役場が、当時の日本ライフガード協会(日本ライフセービング協会の前身)に相談して、最初に派遣されてきたライフセーバーが、湘南や千葉勝浦、さらにはオーストラリアなどでライフセービングを学んできた上野真宏君と、新島出身の佐久間さんでした。
サーファー監視員の中に入って、二人は黙々とライフセービング活動を実践し、毎日早起きしては、走ったり、泳いだり、オーバーヘッドサイズの大波の時でもレスキューボードのトレーニングをしつつ、連日事故防止のためのライフセービング活動を地道に続けました。サーファー監視員から冷たい態度をされたこともあったそうですが、真摯に取り込み続け、実際に溺者をレスキューし続ける上野君らの姿に、いつからかサーファー側も感化されて少しずつ信頼関係を築き、終いにはリスペクトされるまでになったそうです。

翌年からは、オーストラリアのオフシーズン(冬)を利用して、スチューアート・キャメロンなど豪の現役ライフガードが豪日交流基金などの支援を受けて活動に加わるようになり、新島のライフセービングは発展していきました。

その後は、のちに日本ライフセービング協会理事長となる小峯力氏の指導のもと、しばらくは日本体育大学ライフセービングクラブが従事し、その後は同大学初代ライフセービングクラブコーチの田村宏志君らが中心となって設立した“新島ライフセービングクラブ”に引き継がれて現在に至っています。

最初に上野君が新島に乗り込むことがなければ、今の新島のガード体制が確立されることはなかったと断言できるでしょう。

パワフルな波が若きライフセーバーをさらに鍛える

パワフルな波が若きライフセーバーをさらに鍛える

1980年代は、毎年8月末に開催されるNSAの全日本大会と、ライフセービングの上級者向けのアドバンス講習会が日程的に重なることが度々あり、同講習の常宿としていた民宿富八の広間では、夜になるとNSAの役員やサーフィン界の重鎮に加えて、島のサーフレジェンドでもある富八オーナーの昇さんや羽伏浦ステーションのトラさんらも登場して、上野君や小峯氏、それに私も加わったライフセービング関係者との良き懇談の場になりました。色々な話題が上りましたが、良く言われたのは、『新島のライフガードは逞(たのも)しくてすごいよな~!!デカい波でも突っ込むし、海外にも負けない本物のライフガードたちだよなぁ~…』と。
両者側に関係する自分としては、そうした時はとても嬉しい気持ちに包まれていたのを今でもよく覚えています。
その新島ライフガードのルーツでもある上野君は、実は波伝説、海快晴のコンテンツにある『海の救急箱』の執筆者でもあります。
その上野君が、一昨年暮れにライフセービングの講習を指導した帰りに、後輩が運転する車で不慮の重大な交通事故にあってしまいました。中心性脊髄損傷で頸髄C3,C4に四肢不全麻痺を伴うダメージを負い、事故後は首から下がまったく動かない状態になってしまいました。その後、リハビリテーション専門の病院に移り、1年以上のリハビリに不屈の弛(たゆ)まぬ努力を重ねて、右腕が少しながら上がるようになり、右手と両足の指も少しだけは動かせるところまでは回復させることができました。(2月中旬現在)

今も1メートル先の針の穴を通すような、とても困難かつ厳しいリハビリテーションに日々励んでいます。一か月二か月単位ではなく、何年も掛けた厳しいリハビリテーションになるでしょうが、新島ライフセービングのパイオニアとして、また日本ライフセービング協会(JLA)のスーパーバイザーとして、引き続き後進の指導をお願いしたいです。

波伝説、海快晴の『海の救急箱』のバージョンアップにも取り組んでいただきたいし、これまで日本の海の安全安心に深く関わってきた上野君らしい企画による“プロジェクトX”を、ぜひ実現させたいとも願っています。
いつか必ず、新島羽伏浦海岸を見下ろす丘の上に立ち、新島の海の神さまから、『(上野)マサヒロ~、お帰り~。リハビリ良~く頑張ったな!!とってもとっても立派だったぞ~!!!』と温かく迎えられる日が来ることを願ってやみません。(了)2/15執筆

上野君が撒いた種が大きく育つ

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