市役所内の駅伝大会で走る筆者
某市役所に就職してから5年目に、役所内で異動した先のオフィスは横浜の山下公園の前にありました。
市役所の昼休み時間は45分しかなかったのですが、正午のチャイムと同時に着替えて山下公園を出発し、アップダウンのある港の見える丘公園を周回して帰ってくる約4kmのコースを、毎日先輩らと走っていました。
走るのにとても魅力的なコースで、その途中には高級住宅街やビール発祥の場所などがあり、千昌夫さんの元の豪邸や当時太洋ホエールズ(現ベイスターズ)のセカンドで活躍していたポンセ選手が子どもと遊んでいるところに遭遇したこともありました。
関内駅近くにあるYMCA横浜中央のウェイトトレーニングの会員にもなり、そこの仲間がトライアスロンのサークルを作っていたのでそこにも入れさせてもらいました。
平日はほぼ毎日YMCAに通い、そのうちの週二回は、ウェイトトレーニングをした後に根岸の森林公園まで走り、その公園内にある1周1.3kmくらいの周回コースを2周して戻ってくる、10kmくらいを走るのが恒例でした。もちろん昼休みも走ってからの話です。
必ず、二周目は自然とレースと化して、前後にいる仲間の息づかいや足の運びなどを注意深く観察し、どこの上り坂でダッシュをかけて仲間を振り切るかが勝負所になりました。
あの駆け引きは、今思い出してもとても面白く貴重な思い出となっています。
YMCAに戻ってシャワーを浴びてから、たまにタクシーを飛ばして中区本郷町にある格安寿司で有名な『いなせ寿司』で反省会をしました。
大食漢の仲間らとおなか一杯お寿司を食べて、ビールをたくさん飲んでも、当時は3000円でお釣りがきました。(今でも格安で人気のお寿司屋さんのようです)
その日のレースを振り返っては皆で大盛り上がりしていたので、きっと騒がしいお客だったと思います。
その後、初マラソンはタイムが出しやすそうな平らなコースの河口湖マラソンを選びました。大会の半年前から月間の走行距離を少しずつ伸ばし、直前の一か月間は300km以上の走り込みを済ませて準備しました。
結果は、チームYMCA横浜中央から参加した10人くらいの中で、私は一度も歩くことなく、トップの3時間40分でゴールすることができました。
ドンとスタートしてからスタートラインを超えるまでに20分以上もかかり(当時チップ方式はなし)、また20kmくらいまでは道路いっぱいにランナーが溢(あふ)れていたので、前のランナーを抜くにはギャラリーがいない歩道上を走るしかありませんでした。
たらればを言っても仕方ありませんが、もしもスタート地点の並ぶ場所をランナーの前の方に並んでいたら、おそらく3時間20分前後で走れた自信はありますが、その後に私はマラソンをすっぱりと諦める決断をしたのでした。
というのは、完走した3日後にいつものように山下公園を走ろうとしたら、200mも走れないほど身体にダメージが残っていました。また、その晩に病気療養中の先輩のお見舞いに行った病院では貧血をおこしてしまい、たまたま病院内の廊下にあったストレッチャーに勝手に乗って横になり、自家輸血※して回復を図ったほどでした。(涙)
※足を心臓よりも高くして(ひざを立てる)頭部に血液が行きわたり易くする応急措置
元々サーフィンのためのトレーニングの一環として始めたマラソンでしたが、走るたびにタイムが速くなり、市役所内の駅伝大会にも担ぎ出されるようにもなって、すっかりランナーになっていました。(涙)
また、2回だけですがスタンダードタイプのトライアスロンにも参加しましたが、順位は一般の部でいずれも二桁の後半という中途半端な結果でした。
「いつの間にかサーフィンよりもマラソンやトライアスロンに夢中になってしまっている。このままではイカン!!」
「俺はサーファー!!!」
サーフィンへの情熱が薄れ、また行く回数も減り、このままではサーファーと言えなくなってしまうと気がつき、仲間にこう宣言しました。
『みんな、ごめんなさい。俺はサーファーだから、基本は波乗り!!! 今後はトレーニングとして走ることはあっても大会には出ないから、よろしく頼むね~』と。
冬の朝は冷え込むものの、走るのには快適なシーズンです。
そろそろ軽いジョギングから復活しても良いかなと思っています。
波のないときの限定で。(了)