
こんにちは、ナッカルビです。
数を数える言葉がなくて、昔のことも先のことも、あまり話題にしない。
そんな言葉で暮らしている人たちがいるそうです。
過去の記事で、先のことを考えられる賢さは心配の元にもなっている、という話をしました。
じゃあ、先のことをあまり話さない暮らしだと、心配ってどうなるんでしょう?
「今」を中心に話す人たち
アマゾン川の支流沿いに、ピダハンと呼ばれる人たちが暮らしています。居住地の人口は400人ほどです。
この人たちの言葉と暮らしを、30年ほどかけて記録したのが言語学者のダニエル・エヴェレットさんです。
エヴェレットさんの報告によると、ピダハンの言葉には「1、2、3」と数える数詞がないんだそうです。
「1」「2」と訳されてきた言葉を実験で確かめてみると、「2」にあたる言葉が5〜6個のものにも使われていて、正確な数ではなく「少ない」「もう少し多い」くらいの量を表していたとのこと。
さらに、話題にするのは基本的に「自分が見たこと」か「見た人から聞いたこと」。エヴェレットさんはこれを「経験の直接性」と呼んでいます。祖父母より前の世代の話は、言い伝えとしても残っていないと報告されています。遠い昔の話や、まだ来ていない先の話は、会話にのぼりにくいというわけです。
参考:ブラジル地理統計院(IBGE)2022年国勢調査(先住民居住地別人口、付録1 p.139、PDF)
参考:ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』(屋代通子訳、みすず書房)
参考:Frank et al. (2008) Number as a cognitive technology(Cognition)
布教に来たはずが、信仰を手放した宣教師
実はエヴェレットさん、もともとは聖書をピダハンの言葉に訳して布教するために村に入った宣教師でした。
ところが神様の話をすると、「会ったことあるの?」「どんな見た目?」と聞き返され、会ったことはないと答えると、なぜ会ってもいない相手の話をするのかと不思議がられたそうです。

見た人がいない話は、信じる理由にならない。そんなピダハンの人たちとのやりとりを重ねるうちに、エヴェレットさんは自分の話には証拠がないことに気づき、やがて信仰を手放すことになります。布教に行った人が、逆に考え方を変えられてしまったわけです。
参考:Daniel L. Everett「Recursion and Human Thought」(Edge, 2007)
昔も先も話さないと、悩みは減る?
私たちが夜に考え込んでしまうのって、だいたい「もう終わったこと」か「まだ起きていないこと」なんですよね。
終わったことを考えれば後悔になり、まだ起きていないことを考えれば心配になる。どちらも、今ここにはないことです。
そう考えると、昔の話も先の話もあまりしない暮らしでは、後悔や心配の置き場所そのものが少ないのかもしれません。

ちなみに、エヴェレットさんはピダハンの人たちを、よく笑い、くよくよしない人たちとして描いています。ただ、こうした報告には異論も多く、「数量を表す仕組みはある」「文化が文法を決めているとは言えない」といった反論論文も出ています。なので、ここは「そう報告されている」くらいで受け取るのがよさそうです。
参考:Nevins, Pesetsky & Rodrigues (2009) Pirahã Exceptionality: A Reassessment(Language)
まとめ
言葉のバリエーションがあるから、私たちは過去から学び、未来に備えられる。
ただ、その豊かな言葉が、後悔や心配も一緒に連れてくるってことなのだろうか……
坐禅や瞑想で「今この瞬間」に意識を戻す練習をするのは、そんな私たちならではなのかもしれません。

ピダハンの人たちが暮らしの中で当たり前にしていることに、私たちは目を閉じて座ることで、少しだけ近づこうとしている。そう思うと、ちょっと面白いですよね。
では、次回もよろしくお願いします。
