日本列島が極東のシベリアから降りてくる寒気団にすっぽり包まれ、西高東低の冬型気圧配置が強まる頃、 アリュ-シャン沖で巨大に発達した低気圧から南下してくる極上のスウェルがハワイ、ヤップ、パラオ、パプアニュ-ギニア、そしてフィリピンと共にインドネシアのパシフィックサイドにも届く。今回の旅先は、インドネシア最東端の群島で別名「スパイス・アイランド」と呼ばれる北マルク諸島。
OMツアー主催のサマサマボートによる旅。
バリ島在住のサーフフォトグラファーの私 Nobu Fuku
サーフライター&ライダーとして同じくバリ島在住の 吉田 忠左
そして、ツアー参加メンバーと共に
今回は未だ日本人が波乗りしたことのないハルマヘラ島東海岸をサーチするという企画
世界的にもメディア初公開となるハルマヘラ東海岸のサーフトリップ
どんな波と巡り逢うことができるか。。。
プロフィール
81年神奈川県茅ケ崎市にて小説家の父と洋服デザイナーの母との間に生れる。
サーフタウンの湘南でコーストカルチャーに慣れ親しみながら幼少期を過ごす。
93年からNSAを数々の試合をフォロー。
97年ISA世界戦に出場(インドネシアバリ島)
99年JPSAフォローし始め、VQS世界選手権出場(カリフォルニアニューポート44th)
00年月刊誌サーフィンワールドにて’would like some tdsk という音楽コラムを3年間担当
01年surfとsk8を競い合う大会サーフスケーターズにて総合5位
02年と04年サーフィンワールドの半年連載企画(風と波と音の旅)のメンバーとして参加しテキストを書きながら各地にいるサーフミュージシャン共にキャンピングカーの中でJAMセッションを行いその音源を収録したCDを2度にわたり発表する。
05 年セブンウェットスーツのクラフトマンでもありoiso rockersのパーカッションを務めるRAS DASIHHとサーフスケーター3タイムチャンプ関根大地とともにreggaebackband(BREDREN Gmans)を結成と同時にCDジャケットやキャラクターデザインを数々のイベントフライヤー手掛ける。
11年拠点をインドネシア、バリ島に移しyoshidacapsint.を設立。数々のアパレルブランドの別注の帽子を手掛けcap maker,帽子デザイナーとして活動中。
14年帽子デザイン制作の傍らに自ら乗る変態サーフボードのデザイン企画し制作をするtadasukeyoshida kustomdesignを設立し波乗りの聖地バリ島でボードをテストライドしながら変態ボードの発給に努めている。
日本人初!北マルク諸島ハルマヘラ島東海岸 最終回
photo : NOBU FUKU PHOTOGRAPHY
caption : NOBU FUKU
text : TADASUKE YOSHIDA
2月11日
とある岬の南側に午前4時頃に一昨日と同ポイントの沖合に停泊。
波は2feet前後であるが参加メンバーはソリッドな波乗りを楽しんでいた。
その頃、自分はのぶさんと参加メンバーの雨宮さんと共ににハルマヘラ島のある村に上陸することになった。
当初そこに上陸するのは岬の突端にある山に登り、山の上から波の写真を撮る目的であった。
上陸すると家畜である山羊が村を普通に何頭か歩いていて。
船から見る限りではとても小さな集落に見えるが意外と家が並び舗装はされていないが道もある。
物珍しげに村人達は集まって来て話しかけてきてくれた。
村の人口を訪ねてみると家は200軒以上あり住民は1000人以上いる集落。
とても温和で穏やかな人たちであの山に登りたいと訪ねるとラジムというおじさんが連れて行ってくれることになった。
山のほとりには小さな小学校と中学校があり20人以上の小中学生が一緒についてきた。
ラジムさんが先頭に立ち頂上までに一時間弱かかる山を登るのにまるで学校遠足のような状態で登り始めた。
それはなにかに引き寄せられるように。
中腹あたりに差し掛かるとさっき停泊していた沖合や岬の北側の海が一望できる。
息が切れている自分達をみて少し休憩しようと木陰に連れて行ってくれた。
子供達も木陰に座りラジムさんが話し始めた。
ここは大東亜戦争の時に激戦区になっていた。
モロタイ島を占領していたのはアメリカ軍でハルマヘラ島は日本軍が占領していた。
ラジムさんのお父さんは日本人と共にアメリカ軍と戦っていた事を事細かに話してくれて日本軍の監視塔であった場所へ行かないか?と誘ってくれた。
そこから30分かかる場所へと向かい始めたのだ。
不思議なことに自然に脚が動いていく。
子供達はキラキラした眼差しで日本はどんな所なのか?と聞いてきた。
電波は無いが既に携帯に入っている日本の画像を見せながら「日本は忙し過ぎて目が回るよ。ここのほうが良い所だと」と答えながら20分位歩いただろうか。
岬の北側も南側も周りの島々や波が割れている岩棚も全てが見渡せる風景が広がっていた。
立ち止まり愕然と時が止まったかの様に素晴らしい構図に圧倒されていると。
ラジムさんがお父さんの事を。
同じ景色の中で語り始めた。
日本軍人との思い出を話す父親の話であった。
占領されてるのにも関わらずとても親日家であったという事とそこには愛があったという内容である。
ここには運命的に辿り着いた場所であると訳が判らないが何だか確信をしていた。
山を降りていくと途中に爆撃を受けまん丸にえぐれた地面を見たとき自分の祖父がイ ンドネシアに召集を受け戦争を体験をしたという話を思い出した。多くは語らなかったが左足ふくらはぎに大きな穴のような傷跡があり手榴弾の破片が飛んでき て負傷をし、日本に帰国する事になったようだ。
祖父は人を殺めることはせず監視を担当していたという。
帰り道を何度も振り返り若かれし祖父の姿を情景に合わし見ているようであった
過去と現実が交差をしてとても不思議な感覚であり此処に来れたこと深く感謝したのであった。
夕方は強風と豪雨を受け今晩からトベロ沖合に船を走らせた。旅の余韻と共に。。。
2月12日
朝起きると既に風は強く吹いている。幾つかのポイントをチェックするが波乗りは不可能な状態であった。
夕方はトベロ港にある小さな港町にマッサージしに行くことになった。
どんな状況であっても旅は旅、楽しまなければ損である。
港に降りるとベチャッというスクーターの前輪部分が改造され、車輪が2個装備されていて、その車輪の上部に二人は充分に乗れる椅子が設置されたタクシーの様な乗り物である。
だがシートベルトもない前方の椅子に座るには抵抗はあった。なんにも安全性もないし急ブレーキを掛けられたとしたら確実に前へ飛んで行ってしまいそうであった。
乗ってみると意外とそのスリルと、日本人では大抵、思いつかないフォルムは遊園地のアトラクションのようで楽しいものであった。
その乗り物に乗り、日が暮れるまで観光を楽しんだ。
船で宿泊する日はこれでラストナイト、自分はある村で買ったチャプティクスという蒸留酒を船員や参加メンバー達と飲み交わした。そして自分は倒れるように床についた。
明日の早朝の6時には港からカオ空港へ行く予定だ。
2月13日
二日酔いで頭が痛いが港から日本軍が滑走路建設したというカオ空港へむかった。帰りはカオからメナド、マカサール、そしてデンパサールへと一日中移動であったが疲れというよりもこの旅に行けたことの満足感のほうが勝っていた。
旅のレポートはここで終わりにさせていただきたいと思う。
誘っていただいた波乗り写真家Nobu Fuku氏やOMツアーの丹野氏や参加メンバーの方々、キャプテンJokoと船員たちに感謝、、、そして何よりここに自分がいるという事実は御先祖様たちのおかげであると心底感じた旅でもあった。
旅をする度、有難うという人々が増えてくる。
誠に有り難い事である。
terima kasih tuhan.
サーフィンができることに感謝して
その一瞬を大切にする気持ち
忘れず波乗り続けて下さい。
バリ島の最高な波に乗って
サーファーとして
生きた証
残しませんか?
バリ島の最高な波で一生の思い出に残るサーフショット!
最高な波に乗って人生の宝物を撮りましょう!
ありがとうございます。
Nobu Fuku Photography
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