5/2 Story of The Surf Pilgrim vol-26

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Yujiro Tsuji @ Kaifu  Tokushima

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海部川(かいふがわ)は、徳島県海部郡海陽町を流れる二級河川。

環境省の調査で、全国で最も水がきれいな川36本の1つとの認定を受けている

海部川は、高知県境に近い湯桶丸(標高1,372メートル)東面の

槙木屋谷(轟山)に源を発して南東に流れ、

紀伊水道に注ぐ流程36kmの川である。

海部川上流部の山岳地帯は年間降雨量3,000ミリに達する全国有数の多雨地域。

かつては林業で栄えた過疎地を流れる海部川水系は開発などの俗化を免れたため、

ダムもなく、川の水で野点をするほどの清冽な流れと、豊かな植生を誇る。

天然のヒラテナガエビ、鮎、アメゴ、ウナギなどの水生生物の宝庫であり、

山のミネラルがそのまま海へたどり着く、日本では数少ない自然河川である。

三間岩の淵や轟の滝(日本の滝百選)などの景勝地や

河口のサーフィンポイントは自然を満喫しようとやってくるコアな人々や釣り人でにぎわい、

中には海部川に魅せられて移住した人もいる。

上流部は徳島県道148号中部山渓轟公園線、中流から下流は国道193号が並行している。

河口部はカイフポイントと呼ばれる日本有数のサーフスポットとして知られ、

各地からサーファーたちが集まる。
以上は、フリー百科事典・ウィキペディアによる海部川の説明。

最後の行にも書かれてある様に、海部は日本有数のサーフスポット、

いや世界的にも知られたドチューブのリバーマウスポイント。

そしてその素晴らしい波を求めて集ったサーファーによる、

独特のコミューンが形成されたエリアなのだ。

その海部の、レジェンド・ツクちゃん事ツクリミチタカシさんに昔のことを聞いてみた。

ツクチャンは1953年生まれ・現在67歳になる。

徳島市出身で20歳の時(メンズショップでロン毛で働いていた時期)に、

徳島のパイオニアサーファーだった阿南のイチラクリョウジさんに連れられ、

鳴門(千鳥が浜)で初めてサーフィンを覚えた。

その後、イチラクさんと、後に阿南でUSAサーフショップを開くマツバラさんとで、

生見でサーフロッジ・ペリカンがスタートされ、

ツクチャンも23歳からここを手伝う様になったと言う。

そしてその頃内妻でサーフィンしていた時に、

四国で初のサーフブランドを立ち上げた、

ウィリーウィリー、後のTSSCサーフボードの創始者・テリーシノハラ氏と出会い、

その後ファクトリーに入り、シェープの道を歩むことになる。

つまりツクチャンは23歳(1976年)から

徳島市を離れ海部エリアに住む様になったわけだ。

1970年初期にイチラクさんに導かれ、海部で初めてサーフして以来、

その後のツクチャンの人生そのものが海部と共にあったと言えよう。

1980年?に最高のコンディションで行われたラハイナカップでは、

当時大阪若手NO1だったスギモトマーコを下して見事優勝した。

そんなツクチャンに、海部を初めてサーフィンした人は誰ですか?と尋ねると、

自分らよりももっと前に、大阪のシモコウノキノブシさんがやっていたと言う。

ノブシさんは1950年生まれ・現在70歳になるが今も現役で四国に通っている。

ノブシさんとサーフィンの出会いは、

同郷の先輩だったヤオヨシノブ氏にあったと言う。

大阪・高石市出身のヨシノブさんは、

叔母の居るハワイで10代後半の多感な時期を過ごし、

ハワイアンスタイルのサーフィンを身につけ帰国後、

後輩のノブシさんとサーフサファリに出た。

磯ノ浦ではいつも二人だったらしく、

南紀・下里を発見したのもヨシノブさんとノブシさんだった様だ。

そしてあの伊勢・国府の浜を見つけ出したのが、

当時関東のスーパースター・ミッキーカワイさんと、この二人だったと言う。

1969年、そんな二人が今度は四国をドライブスルーしている時に、

現在の海部を見つけ、翌年、おそらく最初に海部をサーフしたと言われている。

そして、ヨシノブさんは四国に移住しウイングクラフトサーフボードを立ち上げ、

ハワイアン・レックスカシノキをライダーに呼び寄せ、海部エラが巻き起こっていった。

また現在那左でゲストハウス・波流月を営むアオヤマさんも古く、

元奥さんが徳島市出身だったこともあり、地元大阪・吹田から頻繁に四国へ通い、

同じく1970年には海部でサーフィンしていたとのこと。

更に45年前、つまり1975年には現在のゲストハウスの土地をすでに買っていたと言う。

京都でサーフショップをし、日本海を開拓し、ハワイのビッグウエイブを攻め込み、

今は四国で静かにゲストハウスを営んでいる。

1970年代初期の海部にはイチラクさん、ヤオさん、マツバラさん、ハルキさん、

ウジケさん、タダさん、ボブさん、ジェリーさん、ヘイキさん、ウノさん、オオイワさん、

セガワさん、オオカワさん、ナガタニさん、フジモトさん、ポンさん、サカイさん、

ミーヤン、マーちゃん、フルタさん、フーテンさん、ヤッさん、ツクチャン等が居たと言う。

そんな中、ハワイでサーフィンを覚え、湘南でサーフィンを磨き、

大阪に戻ってきたチバコウヘイさんが華々しく登場してくる。

四国移住はまだ先のことだが、

海部、いや四国の河口で数々の伝説を築いてきたレジェンド中のレジェンドだ。

チューブのスキル・スタイルは当時から群を抜いており、今尚その実力は衰えることなく、

シェイプされた体を保ち、キープオンサーフィンを実践し続けている。

1970年代後期から80年代になると、海部に移住するサーファーが増え、

サーフボードインダストリーも一気に増えていき、現在のコミューンの原型となっていった。

ファイアーレーンのウメダさん(現パワードライブ)、イデイさん(現ブリーリバー)、

レオさん、クシモトさん(現気サーフボード)、

ディケイドのカナヤマヨシさん、

アイランドセッションのウエダ君(現SMAC)、アカヤン(現スタイリッシュ)、

ミナミ君、アダチさん、

303のカッキン、ヨシジ、オオツカ、

TSSCのシコキン、スギタコ、マッチ(現カムイ)、ハシダテ(現ハシシェイプデザイン)、

ムーブスのナカノタダスケ、ナカノマサト、

スタイリッシュのタナカムネトヨ(現ムネトヨサーフボード)等が台頭し、、

ハワイのドンジョンストン、オーストラリアのアダムフォンスの二人は、

海部のサーフィンのレベルを、更なる高みに引き上げてくれた革命的な存在だった。

そしてついに、ツジユウジロウ&ハヤシケンタという天才サーファーが出現し、

後にグランドチャンピオンとなり、押しも押されぬトップサーファーの地位を築いた。

海部にはただのチューブライダー・ビッグウエイブライダーだけではないのだと

全国にアピールすることとなり、

この二人の偉業が、タナカカイシュウ、ニシブラザーズ、アヅチジョー、

カミヤマキアヌ、カナザワロイといった若手が現在継承していっている。

レディースも、カオルちゃん、セッチャン、セイちゃん、アーミちゃん、

そしてマヤグチカオリ、タニグチエリナの二人がグラチャンになり、

海部エリアは千葉・湘南に負けないサーファーの聖地として進化していったのだ。

 

私事だが、オイラも海部には特別な思い入れがある。

初めての海部は確か高校2年の夏、甲浦フェリーで一人で四国に向かった。

甲浦からは歩いて生見に行く予定だったが、

船の中で同級生のミッタカ(イケダ)に会い、

彼は先輩の車で海部に行くと言うから、

図々しくも車に乗せてもらうことになった。

その先輩とは、

今はもう亡くなってしまったシェーパーのクリスケンジ氏(後のヌマタカオルちゃんの夫)で、

大阪の粋なサーファーの兄ちゃんって感じだった。

さて、初めての海部に到着すると、オーバーヘッドの凄い波が炸裂し、

当時ギンギンだったヨシさん(カナヤマ)やアマチュアで同い年のフジシロケンジ等が、

スーパーラインディングを披露していた。

こいつほんまに同い年なんか〜とおったまげたことを思い出す。

その頃の海部は今の様に堤防がなく、少しテトラが入ってる程度で、

右のビーチ・ショアブレイクからすぐにパドルアウトできた。

グーフィーを見ながらピークへパドルするも、

上手い人ばっかなんでずっとショルダーへ〜

ようやく頭位の波にテイクオフ〜

ところがこれまでに体験したことのない、

波の速さ、パワー、掘れ、で大パーリング〜

ワイオプアウトは慣れっこのはずが、グリングリンに巻かれ上がってこれない、、、

おまけにビーチしかまだやった事がなかったので、

ボトムの砂利にボコボコ叩きつけられ、

更に海の緩い水と川の冷たい水が不思議な感触で、

1本目のワイプアウトで意識朦朧、、、

なんやねん、この巻かれ方は、、、くるちぃ〜〜

そんな事思っているうちに海部名物地獄のショアブレイクまで持って行かれ、

そこでまたまた激激揉まれを強いられ、板も体もズタボロでなんとか岸に上がり、

玉石ビーチで倒れこんでしまったほどだった。

その後もパドルバックしてテイクオフを試みるも、

全部パーリングという結果で終わった。

その当時としては自分的には凄まじい洗礼を受け、

サーフィンの概念を根底から覆されたくらいのショックだった。

それからは事あるごとに四国へ通い(今の様に橋は無くフェリーで)、

海部をはじめ物部や奈半利の河口、

生見では一夏キャンプしたりしながら高校時代を過ごした。

高校卒業後、東京の大学へ進み四国は遠ざかってしまったが、

いよいよカメラマンとして始動し始めた1981年の夏、

原付に跨り、東京からフェリーで徳島まで行き、

徳島港から海部まで荷物一杯に乗せた原付で走っていった事がある。

高校時代にお世話になっていたオーシャンファーイーストのマーちゃんを頼って行き、

宍喰にある焼肉伴で住み込みのアルバイトを始めた。

夜だけ焼肉屋で働き、日中は海部や生見でサーフィンしたり撮影したりの生活だったが、

ある日、皆と高知方面まで行ってしまい、

バイト時間に間に合わず連絡したら、即クビになってしまった〜

翌日から寝泊まりするとこもなく困っていると、

当時那左でペンション・ギャラップを経営していた

コウちゃん事ヤマモトコウジ氏が助けてくれ、

バイト代はほとんど出なかったが、食って飲んで寝るところは保証してくれ、

サーファー感覚なので、俺的には最高の条件で、楽しい一夏を過ごす事ができた。

その後は、

サーフィンクラシック〜サーフィンワールドのスタッフフォトグラファーへと成長し、

毎年の様に取材で海部に通う様になった。

当時は湘南に住んでいたので、

一度四国入りすると2〜3週間は海部と高知を行ったり来たりしていた。

今の様に堤防が無く、海部の河口に広がる野原で、バンで寝泊まりし、

川の清流で汗を流し、ノナミのお好み焼きやモモヤの定食で腹を満たし、

また撮影・サーフィンを繰り返していた。

東に見える出羽島・牟岐大島からの美しいサンライズ、

河口に隣接する鞆奥漁港の沖には小島が佇み、

川の上流からヒンヤリと吹き降ろす川風のオフショア、

梅雨時の大雨によって、河口には大粒小粒の玉石が敷きつめられ、

台風シーズンの東寄りのスエルによって真価を発揮する海部。

海部の波を愛してやまないサーファー達が作り上げられた波乗りコミュニティ。

地元も移住者もここでは一つの仲間となり、ワールドクラスの波をシェアしていく。

緑豊かな山に囲まれ、日本有数の美しさを保っている川の清流、

澄んだ空気、なんだか全てが愛おしくなるあのムード。

やはり海部にはサーファーを魅了し、

ライフさえも変えてしまう不思議な力があるとしか思えない。

 

 

 

94990716_1141181876325744_5135233679882190848_nJoh Azuchi @ Kaifu

 

 

 

 

 

 

96234027_1158013177877911_8979389401628934144_nMasahiro Takehana @ Kaifu  1983

( 1975~1985 Surfing Japan より )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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