4/26 Story of The Surf Pilgrim vol-22

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Sunabe & Sucky Left  Okinawa

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94393212_2829498570430665_1982921769895329792_nSatoru Nakachi @ Sunabe

 

 

 

 

1988年に初めての沖縄訪問、

そして1989年からオイラのライフワークとも言える沖縄取材が始まり、

その最初の年に衝撃的なアウターリーフ・グリーンポールをスコアし、

沖縄の魅力にはまり、ローカルとも親交を深め、

その後毎年夏の台風が来ると沖縄へ飛んで行った。

当時は今のようにLCCなんかなく、

JALかANAの株主優待券をゲットして半額で行ったりしていた。

空港に着くと沖縄本島のセンターゾーン・北谷へ直行〜

ローカルの多くが北谷の砂辺に住み、

砂辺のメイン&コーナーのザデイを待ち望んでいるのだ。

台湾から中国大陸ギリギリの東シナ海を北上していく台風で真価を発揮する本島西面。

読谷から始まり、砂辺、そして恩納村、やんばるエリアへと、

台風のコースによって移行していくのだ。

そういった台風と波の方程式を俺はサトル君(ナカチ)から徹底的に教わった。

もちろん東面、南面、北面に入るタイフーンスエルもサトルと行動することで学んだ。

そんな沖縄レジェンドのサトル君に沖縄サーフィンの歴史を聞くと、

それは古く、湘南と同時期の1960年代に米兵や帰国してきた日系ハワイアン達が、

沖縄にサーフィンという文化を持ち込んできてからだという。

実際サトルが初めてサーフィンを見たのは、

砂辺で米兵が波に乗ってる姿だったと言う。

1975年・那覇の国際通りにシマザワアキヨシさんが

カラカウアサーフショップをスタートさせ、

続いてリーフブレイク、シークリフ、パラダイス、クリスタルなどができていった。

その頃那覇エリアでは、

1980年に発足したOSA初代会長のトウボウさん事オオタトシナリさん、

シロマススムさん、マジャマゴノリさん、シンザトツヨシさん、アカミネさん、

もっと上にはキンジョウヒロシさんら等と言った

沖縄のパイオニア・第一世代のサーファー達が居た。

一方、中部地区では、センちゃん事ヤマネサトシさんが、

湘南・東京でフィン職人の修行を経て沖縄に戻り、

砂辺で初めてのサーフショップ”スティックス”をスタートさせた。

当時16歳だったサトルはまだ宜野湾市に住んでいて、

バイクで砂辺に通い、センちゃんのスティックスサーフのチーム員になったと言う。

その後イサオ(スナガワ)さんがスティックスの後を継ぎ、

同じく砂辺で”ドライブ”サーフをやり出し、

サトルはそこのライダーに成長していった。

イサオさんがサーフィンを始めた頃砂辺はまだ海で、

今のメインブレイクは遥かアウターリーフだったと言う。

つまり現在の国道58号線から向こうは海で、

その後埋め立てられ現在の砂辺に変化していったのだ。

サトルがサーフィンを始めた頃はすでに埋め立てられてはいたが、

まだ今のように家が林立する砂辺ではなく、

埋め立て後の空き地だったらしい。

当時はまだ砂辺のメインと水釜のタートルくらいがサーフポイントで、

今一番混雑するコーナーとかではサーフィンをしなかったらしい。

やがてサトル君は高校を卒業すると、

先生・センちゃんや、師匠・イサオさんの影響を受け、

コンペよりもトリップに傾き、

梅雨時の2ヶ月をインドネシアで過ごすルーティンとなっていった。

そしてインドネシアから帰ると沖縄は台風シーズンになり、

一人黙々と沖縄のサーフサーチを続けていったという。

その後、ヒガリキオ、ホシミチアキ、シマブクロハヤト等が、

沖縄からついにプロとして輩出され、

リッキーは砂辺(現在は浦添)でリキットサーフショップを、

ミチアキは那覇でFTTサーフショップを展開し、

ハヤトは千葉へ出て行き、ウエストスーツの工場で働き出した。

同時期俺が沖縄へ通い出した頃の砂辺では、

現OSA会長のカズ坊事ミヤギトヨカズさんが

バー&サーフショップ・ハードリーフをオープンし、

親不孝通りにはタカの営むチャンティックや、

アオイの父・ケンちゃん事マエシロケンさんが

オールシーズンウエットとアイランドブレイクサーフショップを始め、

富士屋クラブハウスの前身となる、

ナゲッツサーフショップ(サトルが経営)が

メインブレイクの目の前にあったりと、

沖縄のサーフィンが最も盛り上がっていった時期でもあった。

そこから20年以上間があき、

2017年にカズ坊の長男・ミヤギカズマがプロサーファーとなり、

続いて長女のミヤギアリサも2019年にプロ公認を得た。

現在マエシロアオイやゴトウヤマト等もプロトライアルにチャレンジし、

沖縄ヤングジェネレーションの台頭が著しく、熱い!

さて、その頃のオイラの取材はと言うと、

南西のスエルが届き出すと、まずは残波岬のサッキーレフトからのスタート。

ここもアウターリーフなのでパドルで行けば20〜30分はかかる。

かつては500円払いグラスボートで連れていってくれた時もあったが、

今は規則が厳しくなり昔の様にやってくれなくなった。

後はゾディアックで行ったり、

ザビーチの高橋のフィッシングボートで行ったりもしたが基本はパドル。

潮が大きく動いている時やオフショアが強い時は何気に流れがきつく、

漕いでも漕いでも沖に岸に辿り着かず、外海外海へと吐き出されてしまう。

俺は一度どうしても岸に辿り着けず、

もう少しで残波岬を回り込んでしまう所まで来てしまった事がある。

岬の向こうはドン深、断崖絶壁なのを知っているので懸命にパドルし、

なんとかギリギリ岬の内側にへばりつくことができ、

そこからギザギザの岩をカメラとボディボードを持ってよじ登り、

その後道無き道をチクチクした針を持つ植物とギザギザの岩と戦いながら、

血まみれで生還したことがある。

とにかくアウターリーフセッションでは

前後のパワーも残しておかなければならないってこと。

サッキーレフトはシャローリーフの棚に、

Aフレームの異様な掘れ方を見せるスラブで、

セッション中は怪我が絶えない恐るべし洗礼が待っているポイントだ。

ここでもサトル君はマスターで、

スエルディレクション・棚をすっかり見切った波選びで、

ビハインドからストレートラインでコンパクトチューブをメイクしてくる。

ワイプアウトすればほぼ間違いなくボトムのリーフにヒットするからだ。

足裏をザックリ切ったり、腕肩を脱臼したりはしょっちゅうだったが、

かつてアケオ(ワセダ)がここで顔面からワイプアウトし、

顔中血まみれで浮上してきた姿は今も忘れられない。

特に目の辺りの出血がひどく、

目が抉れたのか怪我の様子がわからないほどだった。

当然セッションは中断して、アケオを気遣いながら皆で岸に戻った。

すぐに病院へ行き治療してもらうと、幸いにも目の下を切っただけで、

直接視力への影響がなくホッとした。

そんなデンジャラスなサッキーレフトだが、波・バレルはアーティーで、

まるでタヒチのチョポをコンパクトにした様な姿を見せてくれる。

だからいつもライディングの写真よりも

エンプティウエイブの方が素晴らしいショットが生まれた。

おそらく沖縄取材で最も多くのセッションを繰り返してきた場所であり、

砂辺が上がりきらなかった時でも、このサッキーレフトは大炸裂で、

撮影する側としたら随分と助けられてきたのだ。

そしていよいよサッキーレフトがマックスオーバーになってくると、

砂辺のコーナーが真価を発揮しだす。

コーナーのレフトはタヒチ・タアプナの様なシリンダーチューブ。

一方ライトはベルジーランドの様な波質だ。

コーナーがファイアーするとステージ化し、堤防には多くのギャラリー、

道には所狭しと車がズラ〜っと駐車され、まさにお祭り騒ぎとなる。

過去にコーナー・ザデイの事を書いた記事がある。

 

2006年7月、台風3号。

この時俺はまず沖縄のアウターアイランドにあるアカマタをスコアし、

台風の接近とともに本島に戻って、

砂辺エリアでも当てちゃおうって魂胆だった。
アカマタの時には、トッコ(セキヤ)、マサキ(ハラダ)、

シンペイ(ホリグチ)、テッタ(モリ)、サトル(ナカチ)等とで、

6~10フィートのビッグウエイブセッションをメイクし、

本島ではシンペイ、テッタが残り、

そこにタイゾウ(ハラダ)がジョイントして、

今度はマックスコーナー、マックススナベでセッションした。

コーナーは南西ウネリの時、

まずテイクオフエリアの浅瀬に波がヒットすると、

1~2フィートのテイクオフが走るに連れて倍増し、

ミドルのドチューブセクションで波が一番膨れ上がり、

筒状の高速バレルが出現するのだ。

ややタヒチのタアプナに似ているとこもあり、

フィッシュアイセッションに持ってこいのスポットなのだ。

この日はすでに台風の雲が絡みだして曇天、

台風からの南東のオフショアもきつかったが、

スエルディレクションが良く、刻一刻とサイズアップしてき、

皆のテンションもかなり高かった。

コーナーは水が乗ってる時にしかいいブレイクにならない、

それでも激浅状態。

サーファーはワイプアウトすると

ほぼコーラルリーフにヒットしているようだし、

俺も足ヒレがボトムに着いたり、

場所によっては立てるくらいなので、

変に浅いところで波を喰らわないように気をつけていた。

サトル君は本当にコーナーを知り尽くした波を選び、

大なり小なり全てのバレルをことごとく抜けまくっていた。

やがてたまに来るセットは棚持ちしないマックス状態となりだし、

インパクゾーンにいる俺も緊張してきた。

そしてセットが来た~サトル君が一発目を行き、

2~3回アップスンをかけ俺の目の前で

スタンディングバレルを決めていった。

その波をスルーするともう一回り膨れ上がったセットが押し寄せ、

次にシンペイが行った~

バレルポジションをキープしようと

猛ダッシュでフィンをキックしながらその波に合わせて行った。

シンペイはバックサイドながら、

ノングラブで手を広げながらクールにプルインしていき、

俺はかなりいいポジションで

そのライディングをシークエンスで収める事が出来た。

やったぜ~と思い、その波を潜ってスルーすると、、、、

ついに完全クローズセットが目の前に立ちふさがった。

もう沖に逃げるも間もなく、俺は激浅ゾーンで潜る事も出来ず

爆弾リップ・爆弾スープにもみくちゃにされ、

コーラルリーフにガンガン打ち付けられ、

気がつけば堤防近くのテトラのとこまで持って行かれていた。

そのクローズセットを合図にコーナーには

ノンストップでビッグセットが入りだし、

サトル君は最後の波もバッチリ決め、不敵な笑みを浮かべながら、

”キンチャン~スナベ、スナベだよ~”と言い残して、

サッサとコーナーからスナベへと移動していったのだった。

一方俺はさっきの揉まれ方で一気に体のバッテリーが放電してしまい、

しばしコーナーの堤防で呆然と立ち尽くしてしまったのら~~

(過去の原稿より)
と言った具合に、コーナーがマックスサイズになると、

舞台は砂辺・メインに移行する。

丁度富士屋クラブハウス前の正面がピークとなり、

ライトはオフザウォールの様なファーストロングウォールがピールし、

レフトはショートながらティックなバレルを作り出す、

沖縄のセンターステージだ。

堤防の目の前で炸裂する波に、ローカルもプロも右に左に猛チャージし、

セットが入ると口笛が響き渡り、セットにプルインすると歓声が湧き上がる。

そして夕方になると誰かしらのビールの差し入れから始まり、

波をつまみに宴が続いていく、、、これぞまさしくウチナースタイル。

ビールから泡盛へ、そしてBAR・ハードリーフへドロドロと繋がっていく、、、

 

沖縄の海は全てコーラルリーフで覆われているので、

ビーチがなく(かつて与那原ビーチがあったが埋め立てられた)、

全てのポイントは満潮前後オンリーのサーフタイムとなるため、

カンカンロータイドの時は海には誰もいない。

そして潮が上げてくると、ゾンビの様に一人また一人と海に現れだす。

なのでオン・オフがはっきりし、ロータイドの時は家で休み、

ハイタイドになると待ってました〜とばかりにサーフする、

が鉄則となっている。

内地では普段どんな潮周りでもサーフィンができるので、

初めはこの沖縄独特のハイタイドオンリーというルーティンには戸惑わされたが、

慣れてくると暑さから逃れてエナジー温存をして、やる時間帯に全てを放出する。

例えば朝一がロータイドならば、夜更かしして飲んでも大丈夫?とかね、、、笑

とにかく残波と共に数え切れないくらい砂辺ではセッションを重ねてきた。

確かさっきのコーナーストーリーの続きで、

翌日だったか波は大爆裂となり、

砂辺の堤防を波が越してくるくらいにまでなってきた。

もちろん誰もサーフィンしようなんて思わないコンディションだったが、

富士屋クラブハウスからずっとチェックしていたボーイズはついにパドルアウト。

テッタ、シンペイ、タイゾウの3人が怒涛の海にラインアップしたが、

ライトへ行くと遥か浜川漁港の方まで流されたり、

テトラに打ち上がったりとクレージー状態。

そんな中タイゾウがレフトへゴーしたが、

ノーズが刺さり真っ逆さまにワイプアウト〜

リーシュが切れ、まず板がテトラに叩きつけられ、

タイゾウは怒涛のカレントの中を泳いでいるが、

何か変だ?助けにも行けなく、

カズ坊はライフガードの使う棒浮輪を岸から投げ続け、

タイゾウはようやくテトラ前まで生還したものの、

肩が外れたのか骨折したのかテトラをよじ登れず、

カズ坊も負傷した側の腕・肩をグラブ出来ず、

波はドッカンドッカン容赦無くテトラにぶち当たってくる、、

タイゾウは片手で決死の脱出を試みようやく堤防に上がったが、

腕が上がらない、首が回らない、、

すぐに救急車を呼び、

タイゾウはコルセットをはめさせられ病院へ搬送されていった。

結果肩の脱臼で4ヶ月もサーフィンができなくなった。

そんな痛い目にもあいながら、沖縄の魅力に引き込まれていったタイゾウは

2011年に大阪から沖縄へ移住し、

今は奥さん&3人の子供と暮らし、サーフィン&シェープに励んでいる。

シンペイも初めて沖縄に訪れて以来すっかりこの空気・海・波に惹かれ、

長年通い詰め、素晴らしい波をスコアしてきたプロサーファーの一人だ。

砂辺のベストオブベストとも言えるオフザの様なチューブをくぐりぬけ、

本島のみならずアウターアイランドの凄い波も共有してきた。

テッタもお兄さんが沖縄本島で仕事していたこともあり、

しょっちゅう沖縄には顔を出し、タイフーンスエルをスコアしていた。

古くはコウツサ、ヌマ、カミジョウブラ、カービー、ワキタ、アキラ、

アッチ、ヒグケン、ハヤケン、ターボー、ユウジロウ、ジュン、

ケイト、カイト(セキモト)ユウト、マー、シュン、ヤスタク、

最近ではサスケ、ナカタク等も沖縄を訪れ、

その誰もが口を揃えて、沖縄最高〜と

この南国特有の魅力にハマっていった。

その裏には波もさることながら、

ローカルのアロハスピリット、

めんそーれ(ウエルカム)スタイルがあった。

とりわけ宿泊に関しては富士屋のオオミネさん、

そしてザビーチの高橋さんには

これ以上ないと言うくらいのサポートを受けてきた。

そして夜のハードリーフでは、

カズ坊さんにこれ以上飲めないと言うくらい

ハブ酒を飲まされてきた。笑

サトルやリッキーにはいつ何時でもケアされ、

感謝しても感謝しきれないくらい取材を助けてきてもらった。

砂辺を始め本島に点在するワールドクラスの波波、

そしてアウターアイランドへの誘い、、、

灼熱の太陽、湿度の高い空気・風、抜ける様な空、

世界屈指の透明度を誇る海、そして底抜けに明るい島んちゅ。

いつもいつも沖縄に来る時、

眼下に島とコーラルリーフが見えるとドキドキテンションが上がり、

いつも沖縄を去る時眼下に広がる海を見ると、、、

なんだか胸が一杯になりセンチな気分になっちまう、、、

でも一筋のコーラルウエイが、

自分と沖縄をいつまでも繋いでくれていると信じている。

 

 

 

 

 

94872175_260000038707170_1620070962655395840_n@ Sucky Left

 

 

 

 

 

_PN_2100Satoru Nakachi @ Sunabe

 

 

 

 

 

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あり、乾杯〜〜

 

 

 

 

 

unnamedShinpei Horiguchi @ Corner

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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