6/16 Story of Tsunami Calling vol-4

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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ツナミコーリングⅢを作り終えて、その後の3年はプロモーションビデオの撮影・製作に費やし、

その間に貯まっていったフッテージを一気に吐き出したのが、

ツナミコーリング・ファイナルエディットだった。

コンテンツ・コンセプトは現在製作中の、

波巡礼・SURF PILGRIMAGE 2 ・To The Ends of The World と同じで、

世界中の波、そして日本の波をミックスした作品に仕上げた。

特にツナミ2のワールドトリップ編には無かった、

タヒチ、メンタワイ、レユニオン、メキシコ、の映像が入り、

ラストはハワイの凄波・パイプラインで終わらせた。

タヒチでは、オガワナオヒサ、クガタカオ、フクチタカユキ、ナカチサトルの

チョポアタックがフューチャーされ、

サトル君の、トッププロも顔負けのチューブパフォーマンスには驚かされた。

メンタワイは、ダブチームとのボートトリップで、

当時SWの編集部で働いていたテラウチ君が同行し、

ビデオを担当してくれ、俺はスティールに集中することができた。

テラウチとは、インドネシア・ジャワ島・G-ランドの取材の時も

同様ランドからビデオ撮影をしてもらった。

レユニオン島には、セキノサトシ、ワキタタカユキ、

ウシコシミネトウ、シュットウタカユキ等と旅し、

今となれば、シャークアタックが頻繁にあり過ぎてサーフィン禁止となった、

マジカル・ロングレフトハンダー・サンルーでのドリームセッションが収録された。

レユニオントリップの時は、このメンバーでサウスアフリカ・ジェフリーズベイへも足を伸ばし、

クラシックなJ-ベイもスコアする事が出来た。

レユニオンには1989年、初めてサウスアフリカに行った時、

ハワイのマイクラトロニックからのお誘いがあり、

急遽ビラボンチームに同行し、オッキー、ロニーバーンズ、マンガバリー、マイキ等と、

聞いた事もない、アフリカ大陸の沖合にある、

この小さな小さな島・レユニオンへ訪れる事となった。

その時点でサウスアフリカから帰国するチケットを捨て、

糸が切れた凧の様なオイラの旅が始まったのだ。

レユニオンではお目当のサンルーの目の前にステイし、

外人特有の個人プレー?なので、オッキーやロニー、マンガ、マイキ達が海に入ると撮影し、

海にキャストが居なくなれば、休んだり、ブギーでチャポンと波に乗ったりして過ごした。

とにかくオッキーはモテモテ、ブラック・フレンチのエキゾチックな女の子がいつも周りに居た。

ロニーは車を乗り回し、挙句はどこかにぶつけてグシャグシャにしてしまうは、

マンガはいつも二日酔いで、朝は毎度ゲロッパだったなあ〜

マイキがいくら纏めようとしても、全く纏まらないのが外人ワールドなんだと、

このトリップで悟った。

しかし海に入ると流石は世界のトッププロ、圧巻のパフォーマンスを見せ、

夜になるとどこかでパーティーといったクレージーな二週間だった。

この時の模様は、1990年にビラボン社からリリースされたビデオ”PUMP”に収録され、

ジャックマッコイのディレクトにより、世界中で反響を呼んだ作品となった。

この最初のレユニオントリップから2年後の1991年に、

サトシやワキタ達と再びレユニオンへ訪れたという訳だ。

その後レユニオンではASPの試合が行われたりし、

サンルーは世界の名スポットとして知られるようになり、

ジェレミーフローレスやジョアンダフェイ、マキシムハセノットといった

レユニオン出身のサーファーが輩出されていったが、

度重なるシャークアタックによって、

サンルーはとうとうサーフィン禁止のポイントとなってしまったのだ。

そう考えれば、まだ平和なサンルーでボーイズと楽しくセッション出来たこと、

素晴らしい波で撮影できたことは、世界的にも貴重な記録として残されたんだと思う。
1986年、ハワイからプエルトリコ、そしてメキシコのプエルトエスコンディードまで、

ウキモトカズヤ君と終わり無き旅を続けた事がある。

 

過去の手記から

 

1986年、ノースショア6シーズン目を終え、春先からいつもの様に旅に出た。

この年は、大阪のバディ、カズヤ(浮本和也)と、

プエルトリコへ帰りの決めない、本当のトリッピーに出たんだ。

プエルトリコでは、ノースで仲良くなった、

プエルトリコのパイオニアサーファー的存在のトムファーガーソンを訪ねて、

2ヶ月以上の滞在となった。

本来はそこからハワイに戻る予定だったが、

当時のプエルトリコを代表するプロサーファー/エドウィンサントスから、

ここまで来てるんだから、メキシコのプエルトエスコンディードに行かない手は無いと勧められ、

お金は無いが、時間はたっぷりある俺達は、キラっと目を光らせ、

予定を270度変え、プエルトリコの後メキシコへ向かったのだ。

エドウィンに教わった通り、メキシコシティからプエルトエスコンディードに飛び、

真っ昼間の空港に降り立つと、バタっと倒れそうになるくらいの強烈な熱さが待っていた。

この時点では、世界ナンバーワンの熱さだと感じたくらいだ。

そして呼び込みタクシーに引き込まれ、目指すシカテラビーチに向かった。

観光地でもあるプエルトエスコンディードは、ややバリのクタっぽくて、

商店街にずら~とお店屋が連なっていたが、クタと違うのは、昼間は完全に店を閉めちゃい、

ゴーストタウン状態になってしまうということ。

あまりの熱さから、昼間は家でグデ~~っとする習慣があるようだ。

始めは何やねん~と思っていたが、気がつけば俺等も昼間はバンガロウの中で、

扇風機をブンブン回しながら、グデ~っとなっていたのら~~

宿泊したバンガロウは、確か2人で一泊、$10くらいの安さだった。

簡単なキッチンもあり、シカテラビーチまでも歩いて3分くらいの近さだった。

生活は至ってシンプル、プエルトリコの時の様に車に乗っての移動も無く、

朝一起きると、バンガロウのすぐ先にある岩の上から波をチェック。

プエルトは朝の風の無いときが全てなんで、すぐに入水。

早ければ9時、10時にはシーブリーズが来だし、あっという間にフルオンショアとなってしまう。

風の入ったプエルトは、もうどうにもならず、板を折るのが関の山なんで、

部屋に戻って、食事、読書、睡眠となる。

先にも書いたが、午後になると店屋が一斉に閉まるので、買い物は午前中に、

午後は灼熱の熱さなんで、夕方まで休んでおくしか無い。

夕方、ラッキーなら風が凪、出来る様にもなるが、

朝一のグラッシーコンディションには及びもつかないので、

とにもかくにも朝の1ラウンドに集中するということだ。

シカテラビーチブレイクのパワーは絶大で、

サイズアップするとまさにメキシカンパイプラインと呼ばれる所以が理解できる。

3~4フィートで水中撮影していても、インパクトで叩き付けられると、

ボトムの固い砂に押し付けられ、ギリンギリンに巻かれ、

溺れそうになってしまう程のパワーブレイクなんだ。

この頃はハウジングも持っていたが、泳ぎやすさを優先してニコノスを肩にかけ、

両手を開けて水中撮影に望んだ程だった。

波がでかくなると、水中なんかたちうちできなくなるほどの、

驚異的破壊力のあるインパクトゾーンに、怒濤のカレントが生じ、

ビーチで見ているだけでも肩がこって来る程の迫力だ。

こんな時は、長いシカテラビーチの左端の岬から割れる、

ラプンタ(ザポイント)のレフトのポイントブレイクが良くなりだす。

ビーチブレイクとは打って変わりメロウなロングレフティも、

プエルトエスコンディードの別物の魅力でもあるんだぜ~

ビーチとポイントブレイクの日々を送っていたある日、強烈な下痢に見舞われた。

ピーンと凍り付く様な、針が脳天から尻の穴に抜けて行くような感触に見舞われ、

体内の水分が全て失われて行くくらい、排便、排尿、嘔吐の連続だった。

俺程ではないにしても、カズヤも半日送れで下痢症状が来、

二人してバンガロウで倒れ込んでいたのを、隣のサーファーカップルが気遣ってくれ、

薬や水、食べ物を与えてくれた。

おかげで2日くらいで体調も戻り、原因となったミンチ肉はもう二度と食べたくないと、

体に、心に誓った。

そんなこんなしながら、旅の終盤のある朝、ドガ~~っと物凄い音で目が覚めた。

外はバケツ、いや天地がひっくり返った様なスコールだった。

この貧相なバンガロウの屋根が潰れるんじゃないかと思わせるくらいの、強烈猛烈な雨だった。

思えばメキシコに来てから初めての雨だった。

あれほど灼熱の熱さだったのが、一気にクールダウンし、

バンガロウな中は冷や~~とまでしてきた。

バンガロウの天井にはどこかから逃げてきたイグアナが、きょろきょろ辺りを見回している。

まったくの計画外だったメキシコトリップだったが、

カズヤというバディがいたからこそ、勢いだけでここまで駆け抜けて来れた。

しかし、無一文だったカズヤの旅費立て替え分は、なんと$2000近くになっていた~

まさにケツの毛まで、とはこのことじゃ~ワラ

 

 

 

その初めてのメキシコトリップから11年後の1997年、

ウシコシミネトウ、スズキナオト、カミジョウマサヨシ、オガワヒラク、

コイケアオイといったメンバーで、プエルトエスコンディードへ旅した。

通称シカテラビーチのドチューブ狙いで、オンショアが吹くまでの朝一オンリーセッションだった。

生活パターンはいたってシンプル、ビーチの目の前のホテルにステイし、

朝一、ノーマターホワットでパドルアウト、風が来るまでひたすらプルイン、

早ければ午前9時にオンショアが吹き出す事もあり、その後は海が乱れどうしようもなく、

昼寝、プール、街へ買い物しかなくなる。

3〜4〜5までなら水中でハンドルできたが、

6オーバーになると、パイプのビーチブレイク版となり、

もう真下で喰らうと、ウォータープレッシャーでカチカチのサンドボトムに叩きつけれれてしまう。

またリーフではないので、沖出しカレントがその時のブレイクによってずれ、

いきなり怒涛の流れでアウトへ持っていかれたりするので、水中撮影は大変な作業だった。

なのでスモールデイはフィッシー、ビッグデイはランドからとなっていった。

スティールとビデオを、短時間のモーニングセッションで両立させながら撮影し、

来るべきビッグデイに備えた。

いよいよプエルトが覚醒しだし、6〜8プラスの本家パイプラインの様なビーチブレイクになると、

ラインアップしてるのはガンを携えたハードコアなサーファーばかりだった。

その中に当時のエース・ウッシーも加わり、

狂気ともいえるプエルトの強骨なバレルにプルインしていった〜

そんなメキシコトリップの映像も加え、

ファイナルエディットはツナミ2より更に内容の濃い作品に仕上がっていった。

音楽のバランスも良く、当時ハマっていたディープフォレストの様なハウスミュージックを多用し、

前3作とはまた違ったクールな出来上がりとなった。

こうして1990年代を駆け抜けた、ツナミコーリング・シリーズはこの4作で終了し、

以来ビデオ撮影、編集をすることがなかった、いや辞めた、、、

それから20年の歳月が過ぎ、

自分のパートナー(現在の妻)・アルカスビジョンと旅を重ねることによって、

再び映像制作への火がつきはじめた。

時代はデジタル・SNS、もう雑誌はなくなり、

自分もウエブサイトでブログをアップする仕事に変化していった。

つまり動画はYOU TUBEにアップしていくと言うやり方に変わっていったが、

雑誌畑、ビデオ畑で育ってきたオイラは、

この日々流れていく、消えていくデジタルワールドに疑問を感じていた。

何か後世に形として残していかなければ、本やビデオやDVDの様に物として残さなければと思い、

ツナミコーリング・ファイナルエディットから実に20年ぶりに、

DVD SURF DAYZ JAPANを制作することになった。

撮影は妻のアルカスビジョン、

そして編集は鬼才・パルオフィルム事スズキハルオ君に任せることにし、

自分はプロデュースという立ち位置にいた。

パルオは、茨城のオノヨシオを主演とした、NO EXIT という作品を作り、

俺はその映画を見た時、心底感動した。

茨城と言う舞台をこれほどまで美しく表現し、

完成を見据えての撮影・編集が計算された、稀なサーフィンDVDだった。

彼・パルオなら俺以上の編集、ディレクトをやってくれるだろうと思い、

SURF DAYZ JAPAN 以降、前作の波巡礼・SURF PILGRIMAGE

そして、今回の、SURF PILGRIMAGE 2 のディレクターを任せている。

この、波巡礼 と言う言葉、タイトルをつけてくれたのもパルオで、

俺の生き様・キャラクターを良く理解してくれてのネーミングだったので、

写真集でもこのタイトルを使用することになった。

ビデオ・ツナミコーリングから時を超え、DVD 波巡礼へと、、、

世界の中の日本、日本のサーフィン、日本のサーファー、日本から世界へと、

そんな軌跡・記録が詰まった、ツナミコーリングであり、波巡礼、に受け継がれていったのです。

 

 

 

 

 

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