6/27 Story of The Wonder Wave Land vol-3

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Wayne Rabbit Barthlomew @ West Peak  Sunset Beach  Nov 1983

 

 

1981年に初めてハワイ・ノースショアを訪れた時は、

サーフィンクラシックの社長・編集長だったイシイヒデアキ氏に連れていってもらった。

ワイメアのマークフーハウスの2階をSCハウスとして借り切り、

事実上ダブハウスの始まりでもあった。

ヒロミチさん、マメさんを初め、

若手のジュンボー、シコキン、トダちゃん、ダイスケ達と暮らした。

1階はライトニングボルト・ジャパンチームが住み、

オガマさん、ツダさん、アザハラさん、フーさん達が居た。

右も左もわからないノースショアで、ダブの若手ボーイズとクルーズしまくっていた。

ニコノス片手に初めてパイプにスイムアウトしたが、圧巻のパワーに為す術もなく、

サイモンアンダーソンがスラスター(トライフィン)を駆って優勝したパイプマスターズの時も、

ニコノスの80mmで沖へ出たものの、逃げまどって、潜りまくって、

1ロールも撮れなかった、いやまともに撮れなかった。

ステイ先からは目と鼻の先にあるワイメアにはニックノザキが住んでいて、

ベイがブレイクすると、セットの波をゴーフォーイット〜

えげつないワイプアウトを強いられても平気なダイハードな恐るべしサーファーだった。

フードランドに行くと、マークリチャーズやショーントムソン等、

有名サーファーが普通に居て、まるでハリウッドみたいに思えた。

下手くそな料理を作っては皆にクソミソに言われ、傷口からばい菌が入り、足が膿んでしまったり、

毎朝タウンから通ってきていた、

フォトグのミックヤスナガ氏に連日あちこち連れまわされたり、と色々あったが、

強烈なファーストハワイの体験となった。

12月の末、SCハウスも終わり、日本人サーファーは皆帰国し始め、

俺はSCの依頼で大晦日に初めてのカリフォルニアへ旅立った。

そこからは糸の切れた凧の様に、CALのあちこちを放浪していった。

ハンティントンでは大阪出身のセガワ君と出会いお世話になり、

サンディエゴのオーシャンサイドでは、湘南出身のコッチャンのお家にロングステイさせてもらい、

サンタバーバラでは、OFEの紹介でプロサーファー・デイブスミスと行動を共にしたり、

気がつけば2ヶ月半近く、カリフォルニアを旅していた。

資金も乏しくなってきたので、3月、帰国の一途を辿るためまずはハワイへ〜

そこでオイラのノースの原点とも言える、

サンセットのチャーリーウォーカーさんの家にステイする事になった。

チャーリーはサーフボードファクトリーマンで、シェイプ以外は全てこなし、

家の裏にある小さな工場はいつも活気立っていて、常に有名無名サーファーが入り浸っていた。

ラミネートのレズンの臭い、サンディング後の粉まみれのチャーリーが日常だった。

このチャーリーとの出会い、

そして若かったロニーバーンズやマイクラトロニック等とも親交を深め、

翌年も、その翌年もこのチャーリーハウスにお世話になった。

家はボロボロ、床はドロドロ、シャワーは水だったり、雨が降ると周りはマギー、泥沼化するし、

冷蔵庫のものはどんどん食べられちゃうし、何が良いのかわからなかったが、

家賃は有り得ないくらい安くしてくれ、何よりもサンセットビーチまで歩いて3分の距離、

チャリンコさえあれば全ての用がたせたし、色んなサーファーとも出会えて毎日が刺激的だった。

前置きが長くなってしまったが、ノース3シーズン目、

俺にとって飛躍的な冬となった83〜84ウインター

何度も書いてきたが、この冬から水中ハウジングを手にし、

特にサンセットを重点的に水中撮影を行った。

その中でもこの、ウエイン・ラビット・バーソロミューが

サンセット・ウエストピークからレイトドロップするショットは、

今尚オイラのフェイバリットショットの一つだ。

この年は、クィックシルバービデオ・パフォーマーズの撮影で、

ムービーメイカーのジャックマッコイ氏による、

ラビット、コング、チャッピー等のノースでのフッテージが収められていた。

今でこそパイプ・パイプ・パイプが全てだが、

当時はパイプよりもサンセットにフォーカスしていた。

サンセットは大きく言うと、右手を広げたようなリーフで形成されている。

右から

バックヤーズ〜ボーンヤーズ〜NWピーク〜ウエストピーク〜ウエストボウル〜インサイドボウル

波が小さくなると、

サンセットポイント、ヴァルズリーフ、ショアーズと言った個別のポイントが集約されている。

中でもフォトジェニックなのが、ウエストスエルの時、

一番サンセットビーチらしいピキピキAフレームとなるウエストピーク、

そしてそれがインサイドの棚にヒットしてくるウエストボウル、

それからノーススエルの時に反応してくるサンセット・インサイドボウルは、

バックドアとは比にならない水の量で、分厚くでんごいバレルを形作る。

サンセットがサンセットたる美しさを見せるのはやはりW~NWで、

あのオニギリ山のピーク又はビハインドから滑り降り、

カチカチのフラットボトムでドライブの効いたGターンを加速させ、

高さのあるウエストウォールで豪快なカービングをぶちかまし、

いよいよティックなウエストボウルへとプルインしていくのが、最高の方程式と言える。

一方ノーススエルの時は、基本沖はダラダラなのでテイクオフも楽で、

いかにどこが美味しいセクションになるかを見極め、

スピードコントロールしながら、

最終的にはエンドボウル(インサイドボウル)に合わせてくるのが理想的だ。

言葉で言えば容易いが、あの広く蠢く海でそうはいかないもの、

しかしサンセットマスターと言われるサーファーは皆、

スタイルは個々だが、一連の方程式に当てはまったライディングを見せてくるし、

試合でもそうやって勝ち上がっていくのだ。

つまりサンセットでは自分のしたいことをするのではなく、

波に合わせて、そこで極限のマヌーバーを描くことが美徳と呼ばれている。

だからビーチブレイクでのサーフィンをサンセットに持ち込んでも話にならないってことなんだよ、

日本のボーイズ君〜

83〜84が飛躍的な冬だったと書いたのは、

まず波がずっと良かった事、ここまでの40ウインターを振り返ってもベスト3に入る冬だった。

次に自分的にやはりハウジングをゲットした事によって、写真の幅が広がった、

つまり水中でも望遠レンズ(135mm)で撮れる、シークエンスで撮れる、

ワイドレンズも24mmやフィッシュ(16mm)を使えるなど、格段に写真のレベルが上達した事。

帰国後、この冬の写真が当時サーフィンワールド編集長のイソベタカシ氏に評価され、

SWのスタッフフォトグに抜擢された事。

そして何よりも嬉しかったのが、サンセットで頑張って撮っていた俺のことを、

マークフーがサーファーマガジンのフォトエディターを務めていた

ジェフディバインさんに取り次いでくれ、

ジェフさんから写真を見せてくれ、送ってくれと言われた事、

そしてついにサーファーマガジンに掲載された事だった。

これがサーファーマガジンとの繋がりとなり、年に数回写真をコントリビュートするようになり、

コンスタントに写真が使われるようになり、

contributing photographer の所にも kin kimoto の名前が載るようになった。

その後フォトエディターもジェフディバインからロブギリー、ジェイソンマリー、

そしてグラントエリスと変わっていったが、

相変わらず投稿した写真は使ってくれて嬉しかったし、励みになった。

そんな中、2009年12月8日にワイメアで行われた、

第8回目のエディで撮影した、ウイナー・グレッグロングのウォーターショットが、

ついに夢でもあったサーファーマガジンのカバーに抜擢された。

実に初めてサーファーマガジンに掲載されてから26年の歳月が経っていた。

その全ての源は、チャリーウォーカーハウスにステイしながら過ごした、

83〜84ウインターのサンセットにあったと振り返る事が出来る。

これが、青臭いながらも勢いだけはあった、かなと言う事ですじゃ。

 

 

 

 

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