5/6 Story of The Surf Pilgrim vol-29

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Niyodo River  Kochi  1992

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仁淀川(によどがわ)は、愛媛県・高知県を流れる一級河川で、

愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。

流域面積1,560km2、流路延長124km、

吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川で、流域人口は約11万人。

水質は全国1位(2010年)である。

中流域には四国で第2の規模である多目的ダム・

大渡ダムをはじめとして治水・電源開発のための施設も多く、

水辺利用率も全国1位(2002年)であり、ほぼ100%に近い。

名前の由来は、

平城天皇の皇子であった高岳親王が土佐に来た際、

山城国の淀川に似ているので「仁淀」と名付けたという。

有力な説としては、『延喜式』に貢ぎ物として「贄殿川」のアユが登場した。

「贄殿」とは宮中の厨房で、諸国から魚などの貢ぎ物(贄)を納める所である。

のちに贄殿川から転じて仁淀川になった。

古代の仁淀川は、大神に捧げる酒をこの川で醸造したことから、

「神河」(みわがわ、三輪川)と呼ばれ、いつしか仁淀川となったと言われる。

地理的には、

四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、

分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、

御三戸(愛媛県久万高原町)で合流して形成される。

四国山地に深いV字谷を刻みこみながら南下し、

やがて高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。

三坂峠から御三戸を経て高知県越知町までの区間では、

松山と高知を結ぶ国道33号が並行する。

上流域は、

源流部は石鎚国定公園の指定区域にあたり、

石鎚山の山麓にある御来光の滝付近から流れ出た面河川は、

紅葉で知られる国の名勝面河渓を下り、

三坂峠方面から流れてきた久万川と御三戸で合流する。

これらの最上流域は険しい山地地形というよりもむしろ盆地に近いものがあるが、

旧柳谷村の付近から仁淀川町にかけては、

仁淀峡谷と呼ばれる標高差が数100mという険しいV字谷を刻みながら南下する。

久万高原町には面河第三ダム、仁淀川町には流域最大の大渡ダムなどがあり、

それらのダム付近から越知町にかけてはやや水量が乏しくなるが、

ダムより下流側で長者川・土居川、

越知町で大桐川といった支流と合流にするにつれ、水量を回復する。

面河第三ダム下流の県境から仁淀川と河川名が変わる。

近年仁淀ブルーの名前の広がりと相まって、

一般的な観光地より観光化されていない場所を巡る観光客が増え、

にこ淵は秘境巡りを代表する場所となっている。

中〜下流域では、

越知町より下流側は水量も豊富になり、

夏場ともなると川辺はキャンプ客や釣り人で埋まる。

川面にはカヌーや川漁師の小舟がのんびりと浮かび、

水辺利用率全国1位の実力をみせつけてくれる。

キャンプ場も多く整備されており、それぞれ利用率も高い。

また沈下橋も片岡橋・名越屋橋など大型のものが数多く残っている。

いの町出来地で上八川川、

いの町勝賀瀬で勝賀瀬川などと合流すると川幅はよりいっそう広がり、

大河の様相を呈してくる。

国道33号仁淀川橋付近にある河原では毎年5月に

「紙のこいのぼり」が行われるほか、

春から秋にかけて連日テントがはられている姿をみることができる。

そして、河口部は、

1977年に、黒潮ラインの一部として仁淀川河口大橋が開通した。

当初は有料道路だったが2001年4月に無料開放された。

高知県内有数のサーフスポットであり、一年中サーファーの姿が見られる。

また、シラスウナギ漁が盛んであり、

漁が解禁される12月から翌年3月にかけて

河原や周辺の海岸にはブルーシート製の作業小屋が並ぶ。

小屋内ではタモで掬ったシラスウナギを雑魚と選別する作業が行われている。

近年仁淀川河口大橋の土佐市部分に、新居地区観光交流施設南風が完成して、

隣接する新居緑地公園に遊具ゾーンが完成した。

土佐市にはまだない道の駅に近い観光施設として人気が出ている。

津波対策として津波避難タワーも隣接している。

また近年参加人数が1万人を超えた

高知龍馬マラソン大会の折り返し地点として人気となっている。

(フリー百科事典・ウィキペディアより)

 

 

さて、高知・仁淀のサーフシーンを語る上で忘れてはならないのが、

へビーズサーフのカミムラヒロシ氏(1949年生まれ・現71歳)だ。

カミムラさんは鏡川の辺りで生まれ育ち、

1970年・21歳の時に自作で合板ボード(ドアの様な板)を作り、

川で今のSUPの様にオールで漕いでいたのが始まりだったと言う。

そしてその合板ボードを持って、手結の海水浴場で初めて波に乗ろうとしたが、

すぐにバラバラに壊れ、話にならなかったらしい。

1970年といえば大阪で万博が催された年で、

カミムラさんはその万博で初めてサーフボードを見て、

今度は木のロングボードや、発泡スチロールに新聞紙を巻いて、

ノリで固めて、ペイントして、試行錯誤しながら板を作った。

父が木の彫刻家だったので、木材や道具は実家に有り余るほどあったのと、

テストする場所として目の前に鏡川があったので、

他にもヨットや船も自分で作ったりしていたと言う。

そしてまだまだ未完成の自作のボードを持って、

今度は宇佐のビーチに行きパドルアウトすると、

沖には3人のサーファーが浮かんでおり、

ちゃんとしたロングボードを駆って波に乗っていたと言う。

それが高知で最初のサーファーと言われる、

オカムラさんとシマサキさんだった。

当時オカムラさんはアンダーグランドなサーフショップを営み、

湘南・辻堂にあったJSPからボードを仕入れていた。

カミムラさんよりも3歳年上だったオカムラさんは、

現在74歳になるが、今もシェイプされた体を保ち、

涼しくなる秋まではウエットを着ず

元気にサーフィンを続けていらっしゃる超人・

レジェンド中のレジェンドサーファーだ。

一方カミムラさんは、

東京の神田にあったテッドサーフで初めてサーフボードを購入し、

テッドアデガワ氏からサーフボードの作り方などを伝授してもらい、

実家で今のヘビーズサーフをスタートすることになった。

まだまだ仁淀でサーフィンなんてするレベルではなく、

いや仁淀がサーフィンスポットではなかった時代のことだ。

そんなある日、手結にビーチに行くと、

マリブのロングボードに乗ってサーフィンしている人を見かけた。

それが、後の物部を統括していった、

コーストラインサーフのヨシダカズユキ氏(1951年生まれ)だったと言う。

パイオニアのオカムラさん、シマサキさん、コーストラインのヨシダさん、

実弟のコウジロウさん、そして生見でサーフロッジ・ペリカンをやっていた

イチラクさん達と絡みながら、四国中で波乗りをし、

1973年・結婚を機に実家から引っ越し、

現在あるヘビーズサーフショップが生まれ、

本格的にシェープもする様になっていった。

当時から体育系のカミムラさんの元、結束の強かったヘビーズチームからは、

久礼のクラシタ三兄弟や、息子のカミムラトオル、

今ではタニマサカズ等が輩出されていった。

仁淀が立てばいつもラインアップにいたカミムラさんだったが、

10年前に心臓病を患い、手術後は前の体調に戻りきらず、

すっかり体力が落ちてしまったと言う。

しかし高知のサーフィン高度成長期に、

仁淀のカミムラさん、物部のヨシダさんと言われ、

高知のサーフィンの歴史を、時代を築いてこられた事は誰もが認めるところだ。

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もう一人、カミムラさんより3歳年下の、

タキさん事サトウユキオ氏(1953年生まれ・現66歳)は、

静岡の浜松でサーフィンを覚え、高知に戻り、

1975年に高知市内でタキサーフをスタートさせた。

その頃になると、

湘南・茅ヶ崎でコスミックサーフを展開されていたドジイサカ氏が、

ハワイアンのウエインイノウエやマークフー、

オージーのテリーフィッツジェラルド等を引き連れ、

仁淀で本場のサーフィンを披露してみせ、

当時高知のサーファーを刺激させた、とタキさんは回想する。

この頃の仁淀は遥か沖までバンクがあり、

まるでサンセットビーチみたいに広かったと言う。

しかしいつの頃からか砂利取り船が来て、

毎日の様に砂利を採取して行く様になると、

どんどんとバンクが岸に近寄り、

ダラダラの波質からもっと掘れる様になっていったと言う。

河口も今の様に西側ではなく、東側の堤防沿いに出来たり、

真ん中が突き抜けたり、ある時は端から端まで1キロ近い川幅になり、

全くサーフィンが出来なくなってしまったこともあったと言う。

いつしか砂利取り船が来なくなると、また昔の様に沖に地形が戻り、

あのダイナミックな仁淀のバンクが復活した。

この様にオカムラさんから始まり、カミムラさん、ヨシダさん、タキさん、

そして、カマちゃん事ササオカ氏(クルーサーフ)等が

高知のパイオニア・第一世代となり、

次に、マー君事フジカワさん、コウキさん、ヤマシタさん、タニさん、

シマさん、クラシタ三兄弟等が第二世代、

この頃に、物部のヨシダさんの息子・

ヨシダタケシがプロとしてデビューして行くことになる。

第三世代に、オオタニコウゾウ、ニシカワトオル、

カミムラトオル、クモンキヨシ、マエちん等。

この頃に、デレクハインドから高知の波の事を聞いて、

オージーのティムギルダーが移住し、

その後、多くの外人サーファーが高知に住む様になっていった・

そして、第四世代に、ジュンヤ事ナカガミジュンヤ、ノブ事セントウノブミチ、

キタモトコウジ、タニマサカズ、シマザキマコト等が登場し、

第五世代として、ハヤシケンタ、キリズメヒデトシが仁淀で台頭してきた。

 

 

 

メディアとしては、

コウヘイさんとフォトグのサトウデンジロウさんが

早くから仁淀でフォトセッションを展開し、

US サーフィンマガジンやAUS サーフィンワールドマガジンで

仁淀がフューチャーされた。

またコンドウキミロー氏も1980年代から、

毎年の様にタイフーンスエルをスコアし続け、

コンドウマジックという言葉が生まれた程だった。

自分はこの頃仁淀よりも海部に居ることが多く、

南うねりが入れば海部から高知へ行くと言うスタンスだった。

 

 

今でも忘れられないのは、

1992年?に当てた仁淀(トップの写真)はベストオブザベストと思えた。

海部からコウヘイさんと高知へ向かい、

室戸岬を超えると海の様子がガラッと変わった。

四国イーストコーストとは裏腹に、

サウスコーストは台風からの南西ウネリでパンピン〜〜

海部をホームスポットとするコウヘイさんだが、

昔から仁淀には特別な想いを寄せている。

デンジロウ氏が撮った水中ショットや、

コンドウ氏が撮ったカジュアルなアーチボトムターンの写真は、

仁淀の波と素晴らしくマッチングし、

時代をを超えた歴史的名ショットと言える。

現場に到着すると、恐ろしく広大なバンクに、

アウトから、ミドルから、インサイドから、

ニョキニョキ、バレルアフターバレル、6プラスのラインアップだった。

当時は仁淀の先が有料道路だったこともあり、

今ほど交通量がなかったため、仁淀大橋の上から撮影することができた。

その頃丁度、写真と共にビデオ”ツナミコーリング”の製作もしていたので、

この日はビデオの撮影をし、コウヘイさん、ウエダ君、ドンジョンストン、

ローカルではタキさん、マエちん、トオル君達の

素晴らしいシークエンスを収めることができ、

後にリリースした”ツナミコーリング3”の重要なパートを担った。

確かその夜、コウヘイさんの誘いもあって、

ジュンジョーがハワイから急遽高知入りし、翌朝の仁淀に臨んだ。

黒潮ライン沿いの民宿だったので、

寝床に入ってもショアブレイクの音がけたたましく聞こえ、

明日はでかいぞ〜と、皆で興奮していた事を思い出す。

翌朝まだ暗いうちに仁淀に行くと、昨日よりもウェイビガ〜〜

ドセットは8〜10近くあったのでは、、、

どこまで沖に地形があるの?と思わせるくらい遥か彼方から波はブレイクし、

ライトのバンクに沿って規則正しく割れてくる。

これほどのサイズをホールドしてくれる河口はどこにもないだろう。

やがて朝陽が昇り出し、サーファーが一人また一人とパドルアウトしていった。

昨日ビデオをがっつり撮ったので、今日はスティールに切り替え、

また橋の上から撮影していると、仁淀の駐車場に向かうサーファーが、

オイラの所を通り過ぎる時には、おはようクラクションを鳴らしながら、

急いで海に向かっていってたな〜〜

トップのラインアップショットと、

下のジュンジョーのラウンドハウスカットバックはこの日に撮影された。

岸から撮ると、ポイントが遠く、サーファーは豆粒にしか見えない事、

水中から撮ると、ポイントが広く、サーファーとコネクトしにくい事、

つまりカメラマン泣かせの地理的条件だが、

サーファーにしてみれば、こんな素晴らしいポイントは他に類を見ない。

とにかく壮大なスケールを誇る唯一無二のリバーマウスブレイクの、

強烈なインパクト・インパイアにぶちかまされたセッションだった。

 

 

その後も足繁く仁淀に通ったが、2013年の秋・台風20号による仁淀も凄かった。

同じ時に稲村クラシックが開催され、多くのプロは湘南・鎌倉へ向かったが、

ケンタは仁淀が良くなると確信し、稲村クラシックをキャンセルして四国に留まった。

前半から仁淀はゴーインオフ!!

踏ん切りのついたケンタはノリノリ状態。

中盤はデカくなりすぎ、高知のリーフに逃げたり、

また仁淀をチェックしたりの日々が続き、

いよいよクライマックスとなった9月26日、

折しもこの日に稲村クラシックが行われた。

朝一のモーニングシックネスがとれると、仁淀は5〜6ftでファイア〜

一連のビッグスエルでバンクがよったおかげか、

ボウル状のチューブの質が異常に良かった。

アウトからでも、ミドルからでも、

インサイドからでもほとんどがチューブだった。

かなりのディープバレルでも地形と波とで

押し出してくれるほどパーフェクトだった。

湘南からシンドウアキラやセキモトカイト等も来ていて、

ローカルと共に素晴らしいセッションが展開されていった。

そんな中一人異彩を放ったサーファーが凄いプルインを見せつけていた。

初めは誰だろう?と思っていたら、それはハワイのジュンジョーだった。

20数年前同様、コウヘイさんからの連絡を受け、ハワイから大阪へ飛び、

大阪から夜行バスでこの日の朝高知に着き、コウヘイさんにピックアップされ、

そのまま海に来て、そのままこの波(写真下)に吸い込まれていったのだ。

そしてそのジュンジョーがパドルバックしていくと、ケンタが乗り、

ルースしたスタイルでダブルチューブをメイク〜

ジュンジョーがショルダーからガッツポーズを送ると、

ケンタはピースサインで答える、、、

最高のバイブスの中で、ザデイのセッションが捲られていった。

そしてなんとこの日はケンタの24歳のバースデ〜〜

サーファーにとってこれ以上のプレゼントってあるのかい?

 

 

 

1960年代後期から高知のサーフィンの歴史が始まり、

早50年近くが過ぎ去った。

常にその中心にあった仁淀は、今や世界の仁淀として確立され、

多くのプロ、カメラマン、ビジターが台風時にやってくるようになったが、

こういった高知のルーツ・ヒストリーを知り、

レスペクトの気持ちを忘れないでほしい。

そして今から未来へと、

この素晴らしい仁淀をいつまでも大切に残していきましょう。

 

 

 

 

 

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( 75~85 Surfing Japan より)

 

 

 

 

 

 

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