4/23 Story of The Surf Pilgrim vol-20

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Kazuya Ukimoto @ Amami-Oshima  Kagoshima

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九州と沖縄の真ん中に位置する奄美大島は鹿児島県に属するが、

島の生態形態はむしろ沖縄に近いコーラルリーフに囲まれた自然豊かなサーフアイランドだ。

奄美のサーフィンの歴史は古く、40年以上前に、タバタヤスイチロウさんという方が、

タランベリーサーフファミリーと言う島のクラブを発足したのが始まりと言われている。

同世代にいた別のタバタ兄弟やイシザキススムさん達も島のパイオニアサーファーで、

ミドリ君もお世話になった来たと言う。

そしてやがてミドリヨシヒト、ニシヨシヤス達、第二世代に入り、

ミドリ君は2000年に家族でペンション・グリーンヒルをスタートし、

ニシ君はその2年前の1998年に島で最初のサーフショップ・ニライカナイをやりだした。

いよいよその頃から天才・野生サーファー・モリテッタが台頭し、

その後日本一のフリーサーファーとしてのステイタスを築いていく事になる。

現在は地元笠利町に住み漁師をやりながら、母の経営する居酒屋波乗りテッタの手伝いをしている。

テッタの一つ年下のイカリヤマユウセイも続いてプロデビューを果たし、

現在は馬車山の近くでキャンネン(島の方言で、大丈夫、と言う意味)サーフショップを営み、

ライフセービング、環境活動、パタゴニアアンバサダーとして活躍している。

この二人の第三世代を経て、

今年23歳になる奄美出身の現役プロ・マキノダイチ君の第四世代へと繋がっていく。

ダイチはミドリ君の妹の子供、つまり甥っ子・おじさんの関係でファミリー。

グリーンヒルでサーフィンガイドをしながら、コンテスト活動を行なっている。

奄美大島は緑豊かな島で山が激しく、太平洋側には北部を除き海岸沿いの道は無く、

山を縫って海に降り、また山を縫って海に出るといった地形だ。

逆に東シナ海側はナローでワインディングだがずっとコーストラインが続いていく。

太平洋側には北から、ニクジャガン、ビラ、テビロ、カトク、ヤドリといったポイントがあり、

東シナ海側には、サニ、ガモウザキ、イマイザキ、ハトバマ、

ヤギジマ、オオハマ、コハマ、トエンと、

ほぼほぼコーラルリーフブレイクでハイタイドオンリーのポイントが奄美の特徴だ。

台風、低気圧、冬型気圧配置、南~東~北~西とあらゆるスエルに反応するのも、

四方海に囲まれた島ならでは自然の恵と言えよう。

初めて奄美を訪れた時に見た海の青さ、ピッカピカのコーラルリーフ、

南国特有の植物アダンやマングローブ、奄美以南に生息するハブ、

黒糖焼酎、鶏飯、豚の角煮など島の全てにカルチャーショックを覚えた。

いつかじっくりと滞在して、奄美の凄い波を撮影したいと思うようになった。

 

 

1988年、俺はヒロミチさんからSSJ社のハイエースをひと夏借り(やや私物化?)、

湘南から四国、台風後の四国から九州、そして鹿児島からフェリーで奄美大島に渡った。

奄美で狙っていたシークレットのレフトハンダーを当てる迄は内地に戻らない、

という覚悟をしての三度目の島入りだった。

着いた当初は車の中で寝泊まりしていたが、テビロにたむろしていたローカルキッズと仲良くなり、

彼等の紹介で地元の人の家の離れを安くで借りさせてもらうことになり、

おかげですっかり奄美での生活基盤ができ、

台風のスエルが入りそうになると、内地からプロを呼んではセッションを重ねていた。

テビロに集まる高校生の中には現在奄美の波情報を配信しているグリーンヒルのミドリ君もいて、

放課後になるとブッシュに隠していたボロボロのサーフボードを皆でシェアしながら波と戯れ、

当時滅多に見ることのないプロ達と愉快な時間を過ごしていた。

タカオ(クガ)とタカ(フクチ)が来た時はテビロ三昧で終わり、

ナオ(オガワ)とナオト(スズキ)が来た時もサイズが上がり切らずグスク止まりだった。

四国から同行してくれたヨシジ(コウノ)も時間切れ、金子切れのため内地に帰って行った。

一人奄美に残った俺は無性に寂しくなり内地に戻ろうかとまで考えたが、

軽~くリフレッシュするつもりで、車、荷物は奄美に置いて、

更にディープサウス・沖縄へ単身フライトした。

これが俺の初の沖縄旅行だった。

この奄美トリップで知り合ったオキナワンのカーツが迎えに来てくれ、

当時サトル(ナカチ)がやっていたサーフショップ”サトゥ”で洗礼を受け、

カズボウの”ハードリーフ”でもみくちゃにされ、

満潮時になると海へ行き、、、瞬く間に一週間が過ぎた。

その間台風が直撃したりしながらも、

島のどこかでサーフィンができるというポテンシャルを知った俺は、

次ぎのターゲットは沖縄じゃ~~と心に誓った。

そしてリフレッシュどころかズタボロ酒漬け、波三昧の沖縄から、

再び奄美に戻り次の台風に向けての準備に入った。

今度こそ台風の進路、大きさからして狙いのレフトハンダーがたつだろうと期待し、

タカシ(タニグチ)とカズヤ(ウキモト)を呼んだ。

カズヤにいたっては、なんと結納の日にも関わらずそれをぶっちぎって奄美にまで来てくれた。

そして俺達は狙い通り島のエッジに秘そむザレフトをサーフ&シュートすることが出来、

更に翌日台風の抜けが早く、ビラのビッグウエイブもスコアすることが出来たのだ。

こうしてこの年の長かった奄美取材に素晴らしい終止符を打つことが出来、

カズヤは飛行機で、俺とタカシはフェリーで内地に戻り、

今度は宮崎~和歌山~千葉へと次のタイフーンスエルを追いかけていった。

 

それから12年後の2000年、

フライングシーモンキーの異名を持つモリテッタが

いよいよその名を日本中に轟かせ始めた頃、俺は再び奄美取材を敢行した。

今度はフェリーでのバン持ち込みではなく飛行機で奄美に入り、

あの時高校生だったミドリ君もすっかり大人になり、

やっぱ緑?のヴァンで迎えに来てくれ、実に10年ぶりの再会を果たした。

そしてテビロの丘にある、

ミドリ君の両親が建てたペンション”グリーンヒル”がこの時の基地となった。

テッタは確かまだ15~6歳だったか、まだまだ子供で照れくさいのか余り俺たちに近寄らず、

猿が様子を伺う様に俺等と距離を置いていた様に思えた。(今からは考えられない~~)

この時はサーフィンワールドの取材で、

カービー(フクナガ)、ヒラク(オガワ)、タイゾウ(ハラダ)、サトル(ナカチ)等とで行った。

狙いはもちろん、あのレフティだ。

台風が近づきだすと波は高くなって来るが、風もからんで来る。

しかしこのレフティは突き出した岬によって台風からの北東の風をブロックしてくれ、

沖の海峡はウサギが飛ぶ程のチョップでも、回り込んだラインアップには影響せず、

美しくかつ浅いコーラルリーフの上をホローレフトハンダーがローリングしていった。

この時のスエルは12年前とは比べ物にならないくらいサイズもパワーもあった。

大潮回りと重なり朝夕の潮のある2ラウンドをサーフドアウトした2日目。

明日もここが良さそうなのでグリーンヒルには戻らず、

ポイント近くのレンタルハウスに泊まらせてもらった。

そこには何故かあらゆる楽器が置いてあり、まさにライブハウスの様だった。

ミドリ君がベースを弾きだすと、タイゾウがドラムを叩き出し、ヒラクがギターと、

即興バンドが出来上がった~~

こうなるとオイラも昔とった杵柄?で、下手なヴォーカル唄わしてもらいました~~ワラ

そして、またビールに、芋焼酎、ゲロゲロゲロ、、、、、

こんな時もまだ少年だったテッタ君は酒も飲まず(飲めず)、

借りて来た猫の様におとなしかったんです~~(今から思えば、信じられん、、、)

そして翌朝、台風は奄美の真横にあり足早に北上。

昨日までのレフティはもう時化てクローズアウト。

この風じゃどっか入り江の中しか無理だね~と、車を走らせていたら、

目の前に見えた湾に10フィートいやセットで15フィートはあろうかと思われる、

ジャイアントライトハンダーに遭遇!!

しばし皆で固唾を飲んで見守っていると、湾の中に伸びるライトのリーフに沿って、

波自体はパーフェクトにブレイクしている。

ただそのでかさが物凄くて、

見てた中でのドドドセットはピークで15フィートオーバーのトリプルアップ、

つまりサイズをホールドしきれず、波が驚異的段差を作ってしまっていた。

しかしながらピークからややショルダーになると、

6~8フィートくらいのライダブルなパーフェクションとなる。

湾の中なので風は問題ない、流れもややこしくなさそうだ、

出入りのチャンネルもはっきりしている、

しかしもしあのセットをまともに喰らえば死んじゃうかも、、、

ミドリ君やテッタに聞いても、こんなとこでやったことがないという。

こんな時いつもイケイケモードになるカービーは、

やっぱ、やろうやろう、トライトライと、まくしたてたが全員ノーウェイ状態。

流石のオイラも、、、、ウ~ン、、、やりたい、、、危険、、、のはざま、、

結局更にドデカいセットを見てしまい、俺もカービーもやめましょう、

ネクストタイムってことになった。

それでもこのブレイクに名残惜しく、テッタ~、今度は絶対お前等がやれ

したらこのポイント名はテッターズにしよう~~なんて言いながら、

この恐るべしポイントブレイクを後にしたのであった。

その後テッタ達はこのポイントを攻め始め、

今ではビッグウエイバーが密かに狙うコアなポイントに進化したと聞く。

12年前と同様台風が足早に内地の方に去ると、

東~北東のウネリで今度はビラ、テビロが良くなりだし、

更に東シナ海側にもバックスエルが届きだしてき、

太陽サンサンの中、台風からの余波を存分に楽しむことが出来た。

そう、まさに奄美大島はリアルサーフィンパラダイス・サーファーズアイランドなのだ!

そんな楽園奄美の中でも、最後に残った手付かずの海辺の村・カトクジュラシックビーチが

砂浜侵食を理由に護岸工事(堤防建設)が行われようとしてます。

奄美の美しい自然をそのままに、と思う人々によって反対運動が行われ、

現在は裁判中で、奇跡的に工事は進められていません。

自然豊かな奄美でも開発によって無残にも失われていったビーチが数多くあり、

もうこれ以上の自然破壊はやめてください、と日本中いや世界中からの声が集まっています。

詳しくはこちら、、、

https://amamiworldheritage.org/petition/save-katoku-beach-jurassic-beach/ja

海の懐に入って波と戯れるサーファーならきっとわかるはず。

Keep The Country  Country!!

 

 

 

 

 

 

 

img291@  The Left

 

 

 

 

 

 

img234Tetta Mori @ The Left

 

 

 

 

 

 

img302Takashi Taniguchi @ Bira

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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