4/16 Story of The Surf Pilgrim vol-15

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Ultra Left & The Left  Miyazaki

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旅は続く、、、

2018年10月2日、26年ぶりの種子島トリップから鹿児島へ戻り、

今度はすぐに追いかけてくる台風25号のスエルを狙って宮崎へ〜

まずは鹿児島港から都城まで走り、晩飯はお決まり”すき家”の牛丼、

して銭湯でさっぱりして、コンビニの駐車場で車中泊。

翌朝、都城から志布志、そして串間へと車を走らせ、狙いのザレフトへと向かった。

この岬には2つのポイントがあり、スペシャルと呼ばれるレフトのポイントブレイクと、

湾の奥底の玉石でブレイクするセンターのライト&レフト。

狙いのスペシャルには、ペタ〜〜っと凪いだ海に2人のサーファーが浮かんでいた。

あれ?波ないじゃん、なんでサーファー入ってるのかな?としばらくチェックしていたら、

沖に筋が見え、綺麗なラインアップが入ってきた〜

風は無風、天気も良く、むしろ逆光で眩しかったくらいだった。

岬の突端からブレイクしてきたドセットはまだファンサイズながらも、

スペシャル独特の夢のようなパーフェクションだった。

ショルダーの方からサーファーが乗り込むと、サイズは胸〜肩くらいなのがわかった。

センターがまだブレイクしてないのに、すでにスペシャルに反応しているということは、

スエルが南寄りももっと西寄りなのか?

台風の位置から言ってもかなり早くスエルが入ってきたと感じられた。

地元串間出身の元プロ・ミズモトコウシ、

たまたますぐに近くで友人と釣りをしていたシイバジュン、

里帰りで宮崎市内にいたワタナベカン、

種子島から四国に帰る道中宮崎に寄っていたツジユウジロウに連絡し、

レフトハンダーにスエルが入り出してきたことを伝えた。

彼らの到着を待つ間にもスエルは徐々にサイズアップしてき、海が躍動しだしてきた。

友人との釣りを切り上げ一番乗りしたジュンジュンは、波を見るやいの一番にパドルアウト〜

やがてコウシ、カン、ユウジロウ達も到着し、

この日からまる二日間、このレフトハンダーでのタイフーンセッションを楽しんだ。

台風接近に伴いサイズアップし、風も北東のオフショアでコンディションは申し分なかったが、

撮影する側としてはやはり日本の台風独特の雨には泣かされたな〜

トップ右の3本ラインアップの写真がその時のもの。

ちなみに一番手前の波でチューブに入っているバックサイダーはジュンジュン。

そして左ページの写真はバックインザデイ、まだまだフィルム時代、つまり1990年代のもの。

場所は同じ所ではなく、隣りのもっと大きな岬に沿って割れるレフトハンダーだ。

サイズはイージー8〜10〜、いやもっとあったか?

なんせ口があんぐりするほどの凄まじいレフトハンダーに、誰かたった一人で入っていた〜

それからこのレフティを俺たちはウルトラレフトと呼ぶようになった。

話は前後するが、先のレフトハンダー・スペシャルの存在を知ったのは80年代中期、

雑誌サーフィンワールドでフォトグ・コンドウキミロー氏が撮影した、

ザレフトでのプロセッションが大特集となり、

その波質、その色合いが日本とは思えないムードを醸し出し大反響となった。

この頃の俺たちサーフィンワールドの取材は、いかに凄い波を当てるか、

いかに誰も撮影していない場所を撮るか、そんな取材姿勢を徹底していた。

そういった意味でもコンドウ氏のアーティクルは久々のスクープだったと回想できる。

その影響もありその後の宮崎トリップではこのレフトハンダーを意識するようになり、

日南と共に宮崎の貴重なサーフィンエリアとして広く知られていくようになった。

このレフティがある串間エリアと言えばジーボーさんことフルカワヨシタカさんが、

今もダグリ前でサーフショップを営んでおられ、このエリアのキーパーソンであり、

串間からプロサーファーとしてミズモト兄弟(シンジ&コウシ)

が巣立った過程にはジーボーさんの存在が大きい。

その後弟のコウシは千葉に出て、タコさんの元で更なる飛躍を遂げ、

日本のトップサーファーにまで上り詰めたと言える。

コウシは宮崎から千葉に出て、本格てなプロコンペ活動に入り、

ハワイもタコさんやタカ(フクチタカユキ)等と共にビッグウエイブに挑み、

そのスタイル、スキルを磨いていった。

今は宮崎に戻り、

現在拠点を置く宮崎市内と地元の串間を行き来しながらサーフショップを営んでいる。

だから串間エリアを取材するときには必ずコウシに連絡する。

2018年の時は種子島帰りだったので、お土産に種子島名物安納芋をたくさん車に積んできたので、

コウシにお裾分けすると嬉しそうに、安納芋、さつま芋より甘濃くて大好きなんです〜

こっちで買えばバカ高いんですよね〜と心底喜んでくれ、

俺は初めて安納芋の価値観の高さを知ることとなった。

またこのエリアに来ると必ず泊まらせてもらっていたサーファーがいる。

サンビャクタダシ君、オイラとため年だ。

元は広島出身だが、島根〜日向〜沖縄〜奄美大島〜三重を経て、

1994年から宮崎に移住した典型的なヒッピーサーファーだ。

現在結婚してザレフトまで5分の所に住んでいるが、

当時は毛久保の古民家・ブルーハウスに住み、俺達取材組を快く受け入れ、

ビールを飲んで語って笑って雑魚寝して、、の日々を送っていた。

あれだけあちこち放浪していたサンビャク君だが、

気がつけばもう26年もこの地に根付いている。

 

話はまたまた飛んで、、、、1979年、、、

大阪サーファーのウキモトカズヤがまだ19歳の頃、

恋が浦をベースにサーフバムっていた頃の話だ。

幸島の近くの市木という村に住みながら、

大阪から来る連れとサーフィンに明け暮れていた。

恋が浦でサーフィンした後は、

今もある田中商店で買い物したり休憩したりするうちに仲良くなり、

その後田中商店で泊めてもらうようになり、

なら田中商店も民宿やろうという事になった経緯がある。

ある日台風が接近しどこもクローズアウトになり、

志布志湾の奥底でサーフィンした後、どこかできる所がないかな〜?

っと地図を見ながら海岸に出れそうな裏道を車で片っ端から入っていき、

また歩いて海岸線まで出たりしながらサーフサーチしていた時、

たまたま現在のセンターのブレイクを見つけることができた。

お〜〜ここ出来るやんとストークし、

とりあえず車をUターンさせようともう少し奥まで行ったら、

なんともっと凄いレフトの波が規則正しくブレイクしていたのを発見、

つまり現在のスペシャルを見つけた瞬間だ。

波はでかいし、オフショアびんびん、雨も激しく、

まだそこまでのスキルもなかったので、その日は見てるだけだったという。

翌日台風が通過しサイズも下がり、

オーバーヘッド位になったのでやってみようと思ったらしいが、

まだまだ不安だったので串間のローカルの兄ちゃんを呼び出して、

岸から見といてな〜何かあったら助け呼んでな〜

と初のスペシャルにパドルアウトしたのだった。

それからは南〜南西うねりが入るとこのレフトハンダーに通い詰め、

その年はいつも一人だったという。

つまりこのレフトハンダーの開拓者はカズヤだという一説もあるが、

本当のところ誰が最初にサーフしたのかわからない。

ただカズヤは持ち前のガッツィとハングリー精神で、

80年代初期から誰よりもこのレフトハンダーをやりまくったのは事実だ。

 

1992年、宮崎県で初のASPイベント、

宮崎プロサーフィンワールドチャンピオンシップが行われた時の話だ。

俺は宮崎テレビから、

試合以外のセッションを水中ビデオで撮影するという仕事を依頼された。

折もおりコンテスト期間中に3つの台風がやってきた。

俺はここまでのナレッジをいかし、その日のベストプレースに身を置くように努め、

当時のASPサーファー、トムカレンやトムキャロル、

デレクホーやカイポハキアス等の映像を収めていった。

ある日デレクが、キンさん〜どっかいい所無いのか?と尋ねてきた。

タイフーンスエルで試合会場はほぼクローズ、

デレクのヒートもその日ないようなので、

一か八かあのレフトハンダーへ連れていくとこにした。

ハワイのデレクホー、奥さんのターニャ、

WAのスチュアートベッドフォードブラウン、そして俺。

デレクの借りていたヴァン一台でデレクの運転で串間に向かった。

途中日南のウド下では

ダブルいやトリプルアップした狂気のセッションが展開されていた。

それを横目に俺たちは逸る気持ちをおさえザレフトを目指した。

南うねりでも微妙に南東だとフラットの時もあるので、

俺的にはギャンブルで祈る思いだった。

なんせデレクは当時世界ランクのトップクラスで、

翌年1993年にはハワイアン初のグランドチャンピオンになったサーファー。

そんなサーフィン界のレジェンドに

無様な姿は見せられないと凄いプレッシャーだった。

串間に向かう山道で遅い車が前にいたので、

俺は運転していたデレクに抜かせ抜かせと指示した。

したら追い越した先で、ガビョーン検問があり車を止めさせられた。

警官が運転席に近寄り免許証を見せなさいと、、、

俺は後部座席から通訳して、デレクは奥さんから渡された免許証を見せたら、

それは奥さんのターニャのもので、

警官はからかわれたと思ったのか怒り出し、切符を切ると言い出した。

俺はかなりまずいと思い、デレク本人の免許証を見せ、更に俺の免許証も見せて、

俺のでチケット切って下さい、とまで頼んだが、

警官が頑として聞かずバイクに戻り、国際免許用のチケットを探し出した。

デレクは相変わらず太々しくも、スイマセン〜ゴメンナサイ〜と冗談まじり。

こりゃますますマズイ雰囲気になってきたな〜と思っていたら、

なんと警官が戻ってきて、国際免許用の切符が無いので今回は許すと言ってくれた。

俺はマジほっとして、とにかくその場から脱出することができた。

流石に運転は俺に変わって無事レフトハンダーに到着〜〜

お願い、波よあれ〜〜とチェックすると、、、、

なんと4〜5〜のレフトのパーフェクションが眼の前に広がった〜

デレクに言わせれば、ロッキーレフトをもっと長く、

もっとパーフェクトにした波だと超ストーク。

同行したスチュアートにも、キンさん、グッドジョブ〜と言われ、

本当に肩の荷が下りた。

当時宮崎テレビ局のビデオマンだった、現南蛮フィルムのノダマサオ君も到着し、

俺は水中、マサオ君は岸から、デレクとスチュアートのザレフトセッションを撮影し、

後日番組でそのセッションの映像が使われた好評を期した。

この出来事でデレクとは一気に距離を縮め、

冬のハワイに行った時はデレクの方から

気さくに声をかけてくれるようになったほどだ。

無事セッションを終え、帰りの道中は皆意気揚々〜

またウド下を通り過ぎる時、デレクは窓を開けて大声で、

俺たちは最高の波に巡り合ったぜ〜ざまあみろ〜と吠えていた。

この日デレク達がザレフトを当てたということが

一瞬の内にASPの間で広まり、

翌日多くのサーファーがレフトハンダーに向かったが、

スエルが南東に振りすぎたため、昨日とは裏腹にフラットだったと言う。

実はその頃、俺はカイポとタニグチタカシを連れて、

大分にあるドラゴンリーフで6〜8〜のライトハンダーをスコアしていた。

そして更にその翌日、あの伝説として語り継がれている、

トムカレン、トムキャロル、

ケリースレーターによるカレンズセッションに遭遇する事になった。

このカレンズの話はまた今度ということで、、、、

こうして世界トップサーファーによる、宮崎での台風セッションは世界に広まり、

恐るべし宮崎、日本一!!と知られていくようになった。

 

宮崎取材は毎年のルーティンともなり、

主に日南エリアと串間エリアがフォーカスされ、

宮崎からもどんどんとプロサーファーが輩出されていった。

イケダコウイチ、タニグチタカシ&カズミ、オガタシンパチ、クボタサトシ、

イクラジョージ&タケシ、ウミノアキラ、ヒガシカワヤスアキ、トオダマオウ、

ナカサコケンゴ、ミズモトシンジ&コウシ、シイバジュン、キタダリキヤ、

カワバタショウヘイ、カワゴエショウゴ、、ウメノヒロトシ、ハギワラシュウ等、、

そんな宮崎のアップカマー達とも数え切れないくらいセッションを共有してきた。

ある時ザレフトがマックスの8オーバーまでサイズアップ〜

ドセットはセンターと繋がるくらいまでぶ厚くなってきた。

それでも凄まじいセッションが展開され、皆完全燃焼〜

夕方宮崎市内へ戻る道中、文中最初に書いた隣の岬をチェックしてみると、

そこはザレフトよりももっとダイナミックで、

もっとビガーで、もっとワイルドな波が大炸裂していた。

もう夕方遅かったのと、あまりのデカさにやろうとは思わなかったが、

よくよく見ると一人のサーファーが遥か沖にラインアップしている。

正気の沙汰では無いと思いつつも、彼の動向に釘付けになった。

セットが入るとそのサーファーは沖へパドル、何本かスルーすると、

特大のセットにテイクオフ、ブレないダウンザラインで深いボトムターンから、

8〜10ft近い切り立った壁にクラシックなマニューバーを描き乗り込んでいった。

一体誰なんだろう?かなりのビッグウエーバーであるはずだ。

インサイドまで乗り切ると彼はまた沖へパドルバックし、

確かもう2本くらい乗って暗がりの中上がってきた。

体格が良く頑強そうなマッスルの持ち主で、

名前を聞くと、ミツです、とだけ言い、

多くを語ることなく静かに車へと戻っていった。

帰りの道中ではあのウルトラレフトの事、

一人やってたミツ君の事で盛り上がった事は言うまでもない。

ザレフトの素晴らしさを知り、

この時また新たにウルトラレフトの凄さを知ってしまった。

そして後にこの湾の右端にある

ビッグライトハンダーもチャレンジすることになった。

このように串間エリアには

まさにワールドクラスとも呼べるポイントブレイクが点在している。

南からのタイフーンスエル、

台風から絡んでくる北東の風をオフショアとする地の利から、

宮崎、いや日本中のハードコアサーファーが

愛して止まないサーフサンクチュアリと断言できる。

 

 

 

 

93109477_529561097991525_4233800480599310336_n@ Udo-shita & The Right  Miyazaki

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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