4/10 Story of The Surf Pilgrim vol-11

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Sanohama  Oshima  Tokyo

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1980年の春(当時20歳)、自身初めての海外旅行・オーストラリアトリップを一人で敢行し、

自分的は夢見る夢子気分でサーフィンフォトグラファーの道を歩み始めたが、

結果カメラや荷物一切合財盗まれると言う大バカドジをしでかしズタボロでの帰国となった。

その時に現場(ゴールドコースト)で知り合ったタコさんやヒロミチさん達から、

二宮金次郎(背負い子を担いでいたから)というニックネームをつけられ、

その後金次郎からキンちゃん、キンと呼ばれるようになっていった。

その頃辻堂にあったJSP(今のハーレーショップ)の2階には雑誌サーフマガジンの編集部があり、

現在の波伝説メインオフィスがあるところだ。

この頃まだ大学2年生で辻堂東海岸に住んでいたオイラは、

オーストラリア旅行の写真を、近所にあったサーフマガジン社に持ち込んでみた。

当時の編集長だったカトウさんは、名も無いオイラの青臭い写真と文章を記事にしてくれ、

それが初めての雑誌デビューとなった。

丁度その頃このサーフマガジンが総力の取材を駆使て、伊豆大島の大特集を発表した。

新島はすでにサーフアイランドとして日本中に知られていたが、

まさか大島にこんな波があるとは、とショッキングな報道だった。

まだ学生だった自分はサーフマガジンのカトウさんに、

夏休みの1ヶ月半、大島で住み込みのアルバイトをしながら

サーフィン&写真を撮りたいと頼んでみた。

したら優しかったカトウさんはすぐに現地のサーファーと連絡を取り、バイト先を見つけてくれた。

夏休みに入り友人と3人初めての大島に降り立つと、

日本人とは思えない真っ茶色の顔、真っ金金の髪の毛をしたワイルドな男が迎えにきてくれた。

これが伊豆大島のパイオニア・レジェンドサーファー・

コウちゃん事コウヤスナリさんとの出会いだった。

コウちゃんは初めて会ったとは思えないほど気さくに俺たちを受け入れてくれ、

バイト先の山の中腹にあるアサヒ牧場へと案内してくれた。

このアサヒ牧場のBBQビアーガーデンのウエイターが自分達の仕事で、

夜だけ働けばよくて、別荘のような家を用意してくれ、車も貸してくれた。

つまりデイタイムはサーフィンし放題、宿泊所も山の中にある一軒家で調子よく、

夜はBBQのウエイターで忙しく疲れはてたが、仕事後の生ビールが楽しみで頑張ったもんだ。

こうして夏の大島でのサーフィンライフが始まった。

携帯なんか無い時代だったので、毎日のように元町の隣・野増村に住むコウちゃんの家に行って、

一緒にサーフィンに出掛けるのが日課となった。

大島は三原山を中心とした火山島で、数多くの噴火によって形成されてきた島なので、

海岸線は砂浜よりもゴリゴリの溶岩地帯が多く、

実際ビーチブレイクは島の南東部にある筆島、島の南西部にある砂の浜とジュンカメ、

そして島の西面・元町の地引浜くらいで、

サーフポイントのほとんどがラヴァロック・リーフブレイクとなっている。

なので台風の時以外はほとんどスエルに敏感な筆島のビーチブレイクとなる。

元町から筆島までは17キロ、車で30分ほどだが、

アイランドスタイルに慣れてくるとこんな距離でも遠く感じてくる。

筆島はコスタリカのウイッチロックのように、

海の中から突出した岩がそびえ立ち、手前は砂がつきビーチブレイクとなっていた。

新島のハブシの様に鮮やかなブルーって感じじゃなく、ややダークブルー的な、

波もハブシの様にクリンクリンのチューブって訳でもなかったが、

とにかく波があったから通いまくった、サーフィンしまくったって感じ。

そしていよいよ台風が発生し大島にもタイフーンスエルが届き出してきた。

当然筆島はあっと言う間にクローズアウト〜

そうなった時覚醒したのが、今は堤防が伸びサーフポイントとして消滅してしまった、

島の南東部に位置する波浮港の入口・波浮口と呼ばれたライトのポイントブレイクだった。

波浮湾の右奥から岩沿いにブレイクしてくるライトハンダーで、チャンネルもしっかりとし、

6プラスでもクローズアウトしなかった。

師匠・サカモトノボル氏から受け継いだ、

蛍光黄色のセッションウエットスーツとパイプラインサーフボードを駈って、

コウちゃんは波浮口のビッグウエイブに連日挑んでいった。

俺もここまでのサーフィン人生(まだ5年くらい)で一番のビッグウエイブだった。

ひどいパーリングもした、岩に当たるかと戦慄した瞬間もあった、

でもレイトテイクオフをメイクし、深いボトムターンをかまして、

切り立ったビッグフェイスを駆け上がり、また次のセクションへ突っ走る、

あの爽快感・達成感は今も忘れることができない。

確かタイフーンスエルは3〜4日続き、

とにかく波浮口ロックオンでサーフ&シュートの日々が続いた。

東京からキッドサーフのナルオさんも大島入りし、この波浮口セッションを共有した。

この時のナルオさんとの出会いで、この年の冬、

千葉・勝浦にあるカクイ旅館でバイトさせてもらうことになり、

サーフィンフォトグラファーとして本格的なスタートを切る事となった。

コウちゃんや相棒のヒデミさん(カワムラ)とサーフィン三昧、ビールを飲みバーベキュ〜、

ナンパして、仕事して、島中走りまくって、弾けに弾けまくった大島の一夏を駆け抜けた。

その年の秋に当時のSC(サーフィンクラシック)の取材で、

ヒロミチさんとジッタさん(カメラマンのハタケヤマさん)に同行し、再び大島を訪れたが、

まさかコウちゃんの元気な姿を見るのがこの時最後になるとは思いもしなかった。

大島のサーフィンを一人牽引してきたコウちゃんは、1990年不慮の事故で帰らぬ人となり、

その後、カワムラヒデミさん、マツモトトモアキさん、ヨシオカカズヤさん、

そして現在はヌマタシンさんによって”大島波乗り会”が継承されている。

コウちゃんの息子、長男のダイゴ(現フナハシ)とシンゴ(現ヨシギワ)は

高校卒業と同時に千葉へ移住し、

勝浦のミッちゃん(テルオカ)の元で修行し、二人ともプロ公認を得て、

現在、ダイゴはミッちゃんの会社を継ぎ、

ロックホッパーやウォーリアーズウエットスーツを製作する、

自身の会社ネクストレベルを営み、シンゴはヤマサキパンに勤めている。

大島からプロサーファーが輩出されたのは後にも先にもこの二人だけだが、

その後マツモトトモアキさんの娘・

ミナちゃんがプロボディボーダーとして湘南へ飛び立っていった。

コウちゃんの死後10年以上も経った2001年の台風取材で、俺は20年ぶりに大島を訪れた。

千葉からミッちゃん、イシカワヒデキ、ツジコウジ、そしてダイゴとシンゴ。

湘南からカミジョウマッチ、サクライマサオ、そして俺だった。

元町港に着くとヒデミさんが迎えに来てくれ、先ずはコウちゃんのお墓へ、、、

お墓に向かって手を合わせると、横に居たヒデミさんが、

コウちゃん、キンが会いにきてくれたよ、コウちゃんもきっと喜んでいるよ、

と言われた時は泣いた、涙が止まらなくなった、、、

すでに40歳、

サーフィンワールドのシニアスタッフフォトグラファーとして活躍していたオイラだったが、

20年前コウちゃんと過ごした日々が蘇り、まるで童心に帰っていく様だった、、、

さて取材の方は、いよいよタイフーンスエルが届きだし、筆島はもちろんクローズアウト、

大好きだった波浮口は堤防が伸びヨットハーバーが出来、ポイントが消滅していた。

なので島の南部、砂の浜やジュンカメ、アリゲーターにフォーカスしていった。

中でも砂の浜のブレイクはやや早かったが、ウルワツのようなレフトのラインアップを魅せ、

ブラックサンドビーチながらも、伊豆諸島独特の輝きを持ったブルーオーシャン、

真っ青な6ftのレフティがオフショアにあおられロール・ローリングしていった〜

そんなセッションの中でウエイブオブザデイをもぎ取ったのが、

千葉勝浦のイシカワヒデキプロだった。

ビラビラ〜っと強めのオフショアに持ち上げられるようにドセットをテイクオフ、

ふか〜いボトムターンからそのままプルイン〜〜その瞬間はまるでパイプラインの様だった。

かなりシリンダーの中を走ったが、ビーチブレイクの速さに追いつかずノーメイクだったが、

かなりインパクトのある一撃で、この時のSW大島特集のカバーを飾った。

また当時まだ30代半ばだったローカルビッグウエーバー・

ヨシオカカズヤも素晴らしいチャージを魅せ、

まだ10代のボーイズだったコウちゃんの息子・ダイゴ&シンゴも貴重な経験を得た。

こうして20年ぶりの取材は素晴らしい波・素晴らしいセッションをスコアし、

亡くなった大島のレジェンド・コウちゃんに捧げることができた、、、

いや、思えばこれは天国にいるコウちゃんからのプレゼントだったのかも知れない、、、

コウちゃん、そしてヒデミさん、いっぱいいっぱいありがとね〜〜

 

 

 

 

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1980年にパブリッシュされたサーフマガジンの伊豆大島特集は、

日本のサーフィン界に大衝撃を与えた。

 

 

 

 

 

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それから3年後の1983年には、

サーファー・ソートンファレンダーとウォーターフォトグラファー・ドンキングによって

新たにケタリーフが発掘され、度胆を抜くチューブセッションが記録された。

 

 

 

 

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俺が20年ぶりに訪れた2001年の大島取材。

砂の浜のビッグレフトが話題になった特集だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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