4/23 Osaka Day

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Akamata  Okinawa  Japan  2004

 

波もにゃいので、引き続き大阪デイズ〜〜

昨日のブログに続き、ジャパン・レジェンダリーセッションシリーズ・第2弾。

日本屈指とも言えるアウターリーフのレフトハンダー・アカマタの手記です。

 

 

 

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img240@ Akamata  Okinawa

 

一本のコーラルウェイが、更に沖縄の素晴らしいアウターリーフへと導いてくれた。

 

沖縄に通い初めて28年が過ぎた。

本島を始め、本島の回りに散らばる島々、アウターリーフで、セッションを重ね、

サーフサーチを続けて来た。

これまでの経験、知識、行動によって、

その都度の台風で、どこが良くなるのかの方程式が出来上がって行った。

多い年では2度3度と沖縄を訪れ、台風最前線の波をスコアしてきた。

そんなある年、人生観が変わるド肝を抜く出来事があった。

 

2002年の夏、ワキタと当時まだ17~8歳だったケンタ(ハヤシ)を連れ、

台風の来る沖縄に向かった。

東面を通る予想進路が出ていたので、狙いは太平洋側のイースターリーフのレフト。

あのハイクォリティなインサイドボウルを、ワキタやケンタが滑るとどんなだろう?

と想像するだけで気持ちが高揚してくる。

しかし、自然はそんな甘くない、、、

台風はコースを本島寄りに振り、明日からは大雨のストーミーコンディションに入るだろうと、

これまでの予報が覆された。

皆、諦めモードで今回は仕方が無いですねとテンションダウン、そそくさと寝に入った。

俺は何度もテレビの天気予報を見て(今みたいにインターネットを駆使してない時代)、

ため息をつくばかりだった。

しかしよく見てると、本島は大雨マークなのに、

南の宮古島や八重山諸島は晴れマークになっている。

同じ沖縄でもやはりあれだけの距離が離れているので天気も全然違うのかな~~?

と、、、ふと一年前に遊びでトリップした八重山のナオゾウ(カラ)のことを思い出した。

軽い気持ちで電話してみると、

”今日はドピーカンのオフショアで、6~8フィートくらいありました~~~

パイプラインみたいで、僕はできませんでしたけど~~~

明日も、同じくらいありそうです~~~来られるんですか~?

来て、見てみてくださいよ~~”

俺は、ナオゾウの言葉がやや信じられず、サトルに電話し、カクカクシカジカと説明した。

サトル君も行った事の無いエリアなので何ともいえないが、

こっちにいても明日からはストーミーだから、行くだけ行ってみますか!ということになった。

台風が近づいているので飛行機が飛ぶかどうか、チケットが取れるかどうかも心配だったが、

明日の朝一の便ならまだ飛ぶ、席も充分にあると言われ、

速攻予約を入れ、ナオゾウに明日行くからよろしくと突如行動が慌ただしくなった。

翌朝、本島はどしゃ降りの雨となり未練なくアウターアイランドへ旅立てると、

サトル君の迎えを待つもいっこうに来る気配がニャイ!(出ました、オキナワンタイム)

もう、これ以上待てないとこまで来たので、

ローカルボーイにお願いして、空港まで送ってもらった。

途中サトピーから電話があり、

”すいません~寝坊しちゃって~~直接空港に向かいますから、

先に行っといてください~~”だって、、、(流石っす~)

とにかく空港にぎりぎりなだれ込み、サトルもすぐ後から追いつき、

無事チェックインを済ませ、台風直撃一歩手前の本島を脱出した~~~

本島を飛び立った頃は鉛色の雲、海だったが、

南へ飛ぶに従って雲が切れ、眼下にはコバルトブルーの海が輝いて見えだした。

やがて島が見え、その東海岸沿いを低空飛行で着陸態勢に入っていたら、

丁度真下にG-landの様に、岬をラップしたレフトのラインアップが目に飛び込んで来た。

その時はそれがアカマタとは知る由もなく、サトルと共に大興奮状態となった。

小さな空港の外で異国人みたいに真っ黒なナオゾウは待っていてくれ、

一年振りの再会となった。

サトル、ワキタ、ケンタを紹介し、

今度は大阪から直接フライトしてきたタイゾウ(ハラダ)も加わり、

荷物を積んで、潮の時間の関係上直接海に向かった。

マングローブの生える沼地の端に小さな船が出せる天然のボートランプがあり、

そこにはカラ君のジェットスキーがすでに用意されてあった。

その場所からでは波のサイズがわからず、

とにかく6~8フィートのパイプカインドの波を想定してボードチョイスせよとなった。

確か小潮だったので昼頃が満潮、しかしあまり水がのってこない潮回りだった。

板のセッティングが出来た者の順に2~3人ずつ沖に向かった。

ジェットで送り、戻ってくるのが10~15分。

それを二回繰り返し、ようやく最後にローカル/ユキ坊の運転で、

俺とオオミネ(ぜんざい富士屋の社長で、この日たまたまこの島に居合わせた)が乗り、

沖に向かった。

ポイントに近づくとまさにそこは、

タヒチのチョポか、フィジーのクラウドブレイクの空気が漂っていた~~~

インサイドリーフの切れ目のチャンネルにジェットスキーを回し、セットの様子を伺った。

アウトにセットが入り、サーファーが動き出した。

それに合わせる様に、ジェットも沖へ、、、

8フット近いピッカピカのピークから、まずサトルが乗り込んで来た~

まるでスローモーションの様に、ボトムまで降り、やや早目のインサイドボウルをかぶり、

シャローなクローズセクションでジャンピングプルアウト。

パイプとはまた違う、チョポともまた違う、

アカマタならではの光を放ったブレイクに一発で心が奪われた。

こんな波が日本にあったとは、、、

次にワキタが行った~~

しかし刺さってしまい早くもブロークボード。

俺はジェットから降り、持っていたボディボードでの水中撮影に切り替え、

ワキタをジェットで岸へボードチェンジにいかせた。

ワンサイズ短めのボードとなってしまったが、

ワキタなら行く、必ずやってくれると信じていた。

そして再び長めの板を駆使したサトルがドセットを捥ぎ取った。

その波は神々しく、インサイドの棚でバックリ開き、

サトルは両手を横に伸ばし、そのバレルのでかさをアピールしてみせた。

ジェットから一部始終を観ていた俺達は心底感動した。

ザ.ウエイブ、ザ.ライド、ザ.カラー、全てが愛おしかった。

時よ止まれ君は美しい(市川崑監督のオリンピックドキュメンタリー映画のタイトル)じゃないが、

フィルムチェンジの時俺はハウジングを持つ手が震えたほどだった。

サトルはこの素晴らしい2本を決め大満足。

潮が干きはじめたのをいち早く察知しショルダーに退いた。

(クール~~これで寝坊がなけりゃあなあ、、、)

一方ケンタはまだまだ10代のキッズ。

アカマタのスケールのでかさにあんぐり状態で、

終始チャンネル待機の、凍りつきセッションだった。

(きっと今なら、バキバキ行っちゃってるね~~)

そして、タイゾウはスケッチーなピークに手こずりながらも、

ガッツあるプルインチャージを魅せてくれたのは流石だった。

そして、そして~2本目の板で後がない(残りは5’10”)ワキタだが、

妙に落ち着いた様子だ。

潮が動き出し、インサイドのゲボガボが激しくなってきたが、

あの一発を虎視眈々と狙い続けていた。

そして、セッション後半ついに狙いの波が来た。

ピキピキのテイクオフをクリアすると、

潮の影響なのか、ボトムに降りる迄に波が信じられない程ジャックアップしてきた。

8フットテイクオフがふくれあがって、なんと10フィートバレルを形成しだした。

ワキタはなんのためらいもなく、ブレない素晴らしいボードコントロールで、

オフショアにたなびく、その真っ青なビッグバレルに吸い込まれて行った~~

そのでかさ、クォリティたるや、

本家パイプラインとひけを取らぬオーラを醸し出していた。

ワキタはディープポジションに身を置きながらも、

しっかりと出口を見据え、板をトリミングし突っ走っていた。

最後のインサイドリーフの出口でスピッツが吹き、ワキタのボードが見え、出て来た〜

と思ったら、そこはもう水のないドライリーフで、

ワキタはカムアウトとともに巻き上げられ、ドライリーフに持って行かれてしまった。

幸い怪我はなかったが、再び板を折ってしまい、

ワキタは、もう一度スペアボードを取りに行ったが、

それはあまりにも短すぎ、この波にはたちうちできず、

潮もなくなり、風もサイドに振ってしまったので、

短かった、しかし内容の深い、歴史的セッションを終えたのだった。

 

この時のセッションで、すっかりこの波、この場所に魅了され、

その後、年に一度はアカマタを訪れ、今年で早20年を迎えようとしている。

毎回違った顔を見せてくれるアカマタのブレイクは本当に奥が深い。

正直当時の日本人サーファーでは手に負えない物凄さがあった。

そんなアカマタデイズの中でもとりわけ凄かったのが、2004年6月19日の波だ。

その年は例年より早く内地が梅雨時期に入り、

一方沖縄地方は真夏の陽射しで、早くも台風パッションに明け暮れていた。

確か、JPSAのバリ戦がすぐ後に控えていたが、

ヌマ(カズノリ)とタカ(フクチ)を誘ってのアカマタ入りだった。

珍しくスエルだけが先に届きだし、風も天気も申し分なかった。

デイー1、デイー2と、確実にサイズアップしてき、

この時は大潮回りと重なり、朝夕満潮時の2ラウンドサーフすることができた。

いよいよ、明日がザデイになるだろうと思われたが、

ヌマとタカは時間切れ、バリの大会向けて内地に戻らなければならなかった。

本当はもう少し居てもらいたかったが、当時二人はJPSAのトップランカー。

大事な一戦をスキップする訳にはいかなかった。

それでもここまでのセッションで写真は残したし、

よくぞ来てくれた、頑張ってくれたというしかなかった。

ヌマとタカを空港に送り、夕方の満潮まで時間があるので、

ナオゾウはアカマタを眺望できる山の見晴し台に連れて行ってくれた。

遠くに海が見え、至る所にあるアウターリーフで、

真っ白なスープが跳ね上がっているのが見えた。

左奥に見える大きな湾に幾十にも連なるラインアップが回り込んで、

その長い長いレフトのエッジで豪快なスピッツが吹き出している。

恐らくこのアカマタのドセットは10~15フィートあるだろうと目測された、、、

今度はナオゾウのアパート、アカマタの正面からチェックすると、

グラジガンの強烈版の様な高速レフティが唸りをあげていた、、、

ヌマもタカも帰っちゃいサトルとタイゾウのみ、

ナオゾウは、”僕は今日、ジェットの運転手しときます~”とドン引き、、、

サトル君は正念入れ、一本だけと言って腹をくくった。

同じ沖縄でも、日の入りが遅い八重山地方。

パンパン水のある満潮時のみやろうということになり、夕方の5時頃から出動。

西に傾いた太陽からの順光が、波のフェイスを照らし、

濃紺にオレンジがかった信じられないカラーリングを醸し出していた。

スエルディレクションはこれ以上ないパーフェクションを誇り、

アウトサイドからインサイドまで、肩が落ちることなくバレルアフターバレルだった。

しかし、とにかく、デカイ、エグイ、青の魔物じゃ!!

セット以外は手出しできない、いや手を出しに行ったら間違いなく裏の波にやられる。

しかしセットの波に手が出ない、どうしてもパドルが追いつかない、持ち上げられてしまう、、、

結局前代未聞のアカマタコンディションに遭遇しながらも、

まったくのお手上げセッションとなり悔し涙を飲んだ、

2004年6月19日、アカマタのザベストベストデイ。

 

アカマタの名前の由来は、この村の祭りに出て来る神の戦士の名前から、

ナオゾウがつけたもので、これ以上のネーミングはないと思われる。

アカマタ攻略は俺達のライフワークミッション。

いつの日かまたあんなザデイに巡り会いたい、そして納得のいく一本を決めたい。

まさにワールドクラスと言える、日本屈指のレフトハンダー・アカマタは、

静かな南の果ての島に続く、コーラルウェイにひっそりと存在するのだ、、、

 

 

 

img202 (1)@ Akamata  Okinawa  Japan  2004

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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