How zee Braddah !? … Supported By … PIKAICHI …
Hiromichi Soeda … Backdoor … Kodak Reef … By Kodachrome 64 …
ハウゼ〜・ブラダ〜〜!?
今回は「オレの人生を変えた一枚」「オレの大切な一枚」「原点」を紹介するよ。
当時はまだリバーサルフィルム、36枚しかシャッターが切れなかった時代。
だから水中撮影の時は、フィルムを大事に大事にしていて、今みたいにシャッター押してればいい時代ではなかった、シークエンス連写なんて考えられなかったね。
今思えば、リバーサルフィルムは難しかった、真っ黒だったり真っ白だったり、自分のカラーを見つけ出すのに大変苦労した思い出がある。
当時、駆け出しのカメラマンなんて「写真代」とか貰えず、見込みがあれば「リバーサルフィルム」を提供し「現像」してくれるのが、まずは第一関門だった。
フリーランスはフィルム代現像代は個人負担、36枚の写真を撮って見るのに1500円くらい掛かっていたから、その経費を負担してもらえるのは助かっていたけど「この仕事、どうやって成り立たせるんだろうか?!」不思議に思っていた。
そんな事よりも、マイノリティ、先駆者先輩カメラマンの存在が強烈過ぎて、近寄りがたく怖かったね。
でも水中撮影始めて4、5年目(2000年〜2001年)に、この写真を撮ってから、全てが変わった。
この写真がサーフィンワールドで、ノースショア特集の見開きになり、オレの存在は徐々に知られるようになり、警戒されるようにもなった。
翌シーズンのノースショアから、名門「ロックダンスハウス」に招待され、そのおかげで、滞在費を気にせず集中してノースショアで撮影できる環境を提供してもらえた。
その時に、ロックダンスチームライダーやその家族と親交を深められたのは大きな財産だった。
時代は変わり、写真の必要性も変わり、雑誌もなくなり水中写真の価値も薄れ、「サーフィンカメラマン」という専門職がなくなり、長年続いた日本のサーフィンメーカーの恒例行事、ノースショアでの「〜〜〜ハウス」は消滅し、サーファーの足も遠のいていった。
今思い返せば、ノースショアだけでなく、ヒロミチさんには大変お世話になった。楽しい思い出、悲しい思い出、ドキドキする思い出、色んな初経験させて頂きましたよ。
今でもノースに来ると、いつもロックダンスハウスの事を思い出すよ、とにかく楽しかったよ。
いつか、その日が来るまで … またみんなでノースショアで過ごせる日を夢見たい。
あと、「ロックダンスチーム」同世代、アキラ、ウッシー、ワキタ、彼らに支えられて、ここまで来れたと思ってるよ、ホント育ててもらったな〜〜と感じている。
アキラ
Akira Shindo
ウッシー
Mineto Ushikoshi
ワキタ
「好きだからやる」25年目のノースショア、やっと本来のカタチになったのかもしれないね。
この写真から得たことは・・・もちろん写真のクウォリティは最優先されるけど、そのフレームに収まっている被写体、サーファーとの人間関係が深まり今まで見たことない景色が見れた、写真の価値は未知無限だということ。
それによって、更なる成長をさせてもらえるチャンスが与えられた、ということでしたね。
感謝いたします。
https://northshoresurfshop.com
THE GYM 本日のトレーンングは?!
4立米の砕石をケンスコとネコで移動、「簡単しょっ」な感じで始めるも、「えっマジかよ」に。
砕石ひいて底上げ、最終的には「お風呂場」にする。
オレのトレーニングは、砕石ひいてツラを合わせるまで、一人で。
想像以上に、体力といい精神力といい、ハンパねぇーー筋トレ日になったよ。