6/14 Story of Tsunami Calling vol-3

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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ツナミコーリング・シリーズ・第3作目は、いよいよ日本編。

タイトルも、バックトゥハートランド。

20代から30代にかけてほとんど海外にいた自分にとって、

母国・日本の波への思いが詰まった作品となった。

プロデューサーはツナミ2から引き続き、サイファーのイザワ氏が担当し、

仮編も彼のオフィスで、かなり短時間で仕上げた記憶が残っている。

ロケ地は、新島、湘南、千葉、沖縄、和歌山、宮崎、種子島、四国。

この時撮影取材した時の写真が、写真集・波巡礼(ブエノブックス)で多く使用されている。

 
オープニングの新島編では、クガタカオ、フルカワイサム、カネカツコウジ、

シンドウアキラ、ツジコウジ等のキャスティングで、

掘れ掘れのハブシ、アワイでのセッションが収録されている。

湘南編では、ナカヤマヨシロウフォトグ、

千葉編では、ミヤガワミキオフォトグが撮影したビデオフッテージも使わせていただいた。

沖縄編では、1989年・初めての沖縄取材で集まった、シンドウアキラ、ホンジョウムツミ、

イマスノブマサ、コウツサヒロユキ等とのコーラルリーフセッション。

和歌山編では、南紀ワイルドピークのライトと和歌山岬のレフトで撮影され、

ソエダヒロミチ、オオツカナオキ、ホリグチゲンキ、

チバコウヘイ、ウエダマサヒロ、ウキモトカズヤ等が出演。

種子島編では、ヌマジリカズノリ、イイダカズシ、マシューピッツ等によるアイランドセッション。

宮崎編では、タニグチタカシ、ヌマジリ、フクチタカユキ、

セキノサトシ、イケダコウイチ等による、日南、内海での台風セッションの模様。

四国編では、仁淀と海部のワールドクラスのドチューブ映像を踏まえ。

ラストは、1992年・宮崎で行われたASPの時に展開された、

外人サーファーによるスーパーパフォーマンスで締めくくられた。

マンガバリー、トムカレンの直線、トムキャロル&トムカレンの内海レフト、デレクホーの永田、

そしてラストのラストはカイポハキアスによる

シークレットライトハンダーの水中でフィナーレとなる。

特にラストのカイポの水中フッテージは圧巻で、日本とは思えない6〜8のパーフェクションを、

まるでハワイのホームブレイクの様に、

リーフブレイクを読みきったスタイルでチューブを笑いながらメイクしてきた〜〜

当時のローカルとの交渉でバックの景色は出さない約束で、

ようやくツナミ3で使用することができたのだ。

しかしその後このポイントは完全ローカルオンリーとなり、

取材はおろか外部からのサーファーもシャットアウトとなってしまった。

ツナミ1&2で培った経験から、仮編も本編もスムーズに進み、

ツナミ1の時の難産とは裏腹に、とても安産な作品となった。

更に日本の凄い波を網羅した出来となったので、ツナミ1&2を凌ぐ高販売となった。

ただ自分的には、本業のスティールに集中したくなっていた、

編集で東京スタックになるのが嫌だった事もあり、

このツナミコーリング3でビデオの方は一旦終わろうと思っていた。

ところがこの辺りから、日本のサーフィン界高度成長期と共に、

空前のビデオブームとなっていき、

日本のメーカーから自社のプロモーションビデオ制作の話が次々と来てしまった。

撮影だけならともかく編集は、、、と思う気持ちがあったが、

ドロップアウト社の”CRUSH”、

ロックダンス社の”SOLID ROCK”、

ウォリアーズ&ロックホッパー社の”KOA NARU”

と言った3本のビデオを手がけることとなった。

そしてそれに向けて新たな撮影に入ると、またビデオフッテージが溜まってきだし、

3年もすると充分な素材がストックされ、3社のプロモーションビデオを制作した後、

せっかくの映像が残っているので、もう一本、ツナミコーリングを制作することになった。

でも本当にこれでビデオ制作は終わりにしようと、

ファイナルエディットと言うタイトルにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

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