5/14 Story of The Surf Pilgrim vol-31

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Takayuki Wakita @ Akamata  Okinawa  2002

http://buenobooks.shop.multilingualcart.com/goods_ja_jpy_230.html

 

 

 

 

 

96768063_1495591833943957_8787386139951497216_n@ Akamata  Okinawa  2004

 

 

 

一本のコーラルウェイが、更に、沖縄の素晴らしいアウターリーフへと導いてくれた。

 

沖縄に通い初めて30年が過ぎた。

本島を始め、本島の回りに散らばる島々、アウターリーフで、セッションを重ね、

サーフサーチを続けて来た。

これまでの経験、知識、行動によって、その都度の台風で、

どこが良くなるのかの方程式が出来上がって行った。

多い年では、2度3度と沖縄を訪れ、台風最前線の波をスコアしてきた。

そんなある年、人生観が変わる、ド肝を抜く出来事があった。

 

 

 

 

沖縄県八重山諸島にある石垣島で生まれ育った

カラナオゾウ君 (1973年生まれ・現47歳)は高校を卒業した後、

宮崎の航空自衛隊に就職し、27歳までの9年間を宮崎で過ごした。

サーフィンとの出会いは19歳の時で、地元宮崎のオシカワ氏が紹介してくれた、

ラムジャングル・モリゾノ氏の元で、ロングボードをやり始めた。

元々運動神経が良かったナオゾウは、木崎浜をホームグランドとし、メキメキ上達し、

23歳の時には九州チャンプ、そして西日本を2連覇し、

バリバリのコンペティターとなっていった。

しかし、26歳の時に靭帯の怪我をし、

目の前にあった世界選手権、そしてプロになることを断念し、

怪我のこともあったので自衛隊を辞め、27歳の時、故郷・石垣島に戻っていった。

島に戻るや、独自でサーフサーチを続け、

すでに1994年に見つけていたアカマタを始め、

ヤッサーやトゥール、ヤマング等のポイントを開拓していった。

仕事は、市内にあるアイランドブラザーズサーフショップ石垣店の店長を任され、

同時に自身の、ブルーショックサーフボードファクトリーを地元の白保で立ち上げた。

丁度その時期(2001年)俺は本島から石垣へロケハントリップをし、

まさに野人の様なナオゾウと初めて出会う事になった。

そしてその後、奇跡のリーフ・アカマタへと導かれていった。

 

 

 

(以下過去の手記より)

 

 

2002年の夏、ワキタと、当時まだ18歳だったケンタ(ハヤシ)を連れ、

台風の来る沖縄に向かった。

東面を通る予想進路が出ていたので、狙いは前の原稿にも書いた、イースターリーフのレフト。

あのハイクォリティなインサイドボウルを、ワキタやケンタが滑ると、

どんなだろう?と想像するだけで気持ちが高揚してくる。

しかし、自然はそんな甘くない、、、

台風はコースを本島寄りに振り、明日からは大雨のストーミーコンディションに入るだろうと、

これまでの予報が覆された。

皆、諦めモードで、今回は仕方が無いですねと、テンションダウン、そそくさと寝に入った。

俺は何度もテレビの天気予報を見て(今みたいにインターネットを駆使してない時代)、

ため息をつくばかりだった。

しかしよく見てると、本島は大雨マークなのに、

南の宮古島や八重山諸島は晴れマークになっている。

同じ沖縄でも、やはりあれだけの距離が離れているので、天気も全然違うのかな~~?

と、、、ふと、一年前に遊びでトリップした、八重山のナオゾウ(カラ)のことを思い出した。

軽い気持ちで電話してみると、

”今日はドピーカンのオフショアで、6~8フィートくらいありました~~~

パイプラインみたいで、僕はできませんでしたけど~~~

明日も、同じくらいありそうです~~~

来られるんですか~?来て、見てみてくださいよ~~”

俺はナオゾウの言葉がやや信じられず、

サトルに電話し、カクカクシカジカ、、、と説明した。

サトル君も行った事の無いエリアなので、何ともいえないが、

こっちにいても、明日からはストーミーだから、

行くだけ行ってみますか!ということになった。

台風が近づいているので、飛行機が飛ぶかどうか、

チケットが取れるかどうかも心配だったが、

明日の朝一の便なら、まだ飛ぶ、席も充分にあると言われ、速攻予約を入れ、

ナオゾウに、明日行くからよろしくと、突如行動が慌ただしくなった。

翌朝、本島はどしゃ降りの雨となり、未練なくアウターアイランドへ旅立てると、

サトル君の迎えを待つも、いっこうに来る気配がニャイ!

(出ました、オキナワンタイム、、)

もう、これ以上待てないとこまで来たので、

ローカルボーイにお願いして、空港まで送ってもらった。

途中サトピーから電話があり、

”すいません~寝坊しちゃって~~

直接空港に向かいますから、先に行っといてください~~”だって、、、

(流石っす~)

とにかく空港にぎりぎりなだれ込み、サトルもすぐ後から追いつき、

無事チェックインを済ませ、台風直撃一歩手前の本島を脱出した~~~

本島を飛び立った頃は、鉛色の雲、海だったが、

南へ飛ぶに従って、雲が切れ、眼下にはコバルトブルーの海が輝いて見えだした。

やがて島が見え、その東海岸沿いを低空飛行で着陸態勢に入っていたら、

丁度真下に、G-landの様に、

岬をラップしたレフトのラインアップが目に飛び込んで来た。

その時はそれがアカマタとは知る由もなく、サトルと共に大興奮状態となった。

小さな空港の外で、異国人みたいに真っ黒なナオゾウは待っていてくれ、

一年振りの再会となった。

サトル、ケンタを紹介し、

今度は大阪から直接フライトしてきた、タイゾウ(ハラダ)も加わり、

荷物を積んで、潮の時間の関係上、直接海に向かった。

マングローブの生える沼地の端に、小さな船が出せる、天然のボートランプがあり、

そこにはナオゾウのジェットスキーがすでに用意されてあった。

その場所からでは波のサイズがわからず、

とにかく6~8フィートのパイプカインドの波を想定して、

ボードチョイスせよとなった。

確か小潮だったので昼頃が満潮、しかしあまり水がのってこない潮回りだった。

板のセッティングが出来た者の順に、2~3人ずつ沖に向かった。

ジェットで送り、戻ってくるのが、10~15分。

それを二回繰り返し、ようやく最後にローカル/ユキ坊の運転で、

俺とオオミネ(ぜんざい富士屋の社長でこの日たまたまこの島に居合わせた)が乗り、

沖に向かった。

ポイントに近づくと、

まさにそこはタヒチのチョポかフィジーのクラウドブレイクの空気が漂っていた。

インサイドリーフの切れ目のチャンネルに、ジェットスキーを回しセットの様子を伺った。

アウトにセットが入り、サーファーが動き出した。

それに合わせる様に、ジェットも沖へ、、、

8フット近いピッカピカのピークから、まずサトルが乗り込んで来た~

まるでスローモーションの様にボトムまで降り、やや早目のインサイドボウルをかぶり、

シャローなクローズセクションでジャンピングプルアウト〜

パイプとはまた違う、チョポともまた違う、

アカマタならではの光を放ったブレイクに、一発で心が奪われた。

こんな波が日本にあったとは、、、

次にワキタが行った~~

しかし、刺さってしまい、早くもブローキンボード。

俺はジェットから降り、持っていたボディボードでの水中撮影に切り替え、

ワキタをジェットで岸までボードチェンジにいかせた。

ワンサイズ短めのボードとなってしまったが、ワキタなら行く、

必ずやってくれると信じていた。

そして再び、長めの板を駆使したサトルがドセットを捥ぎ取った。

その波は神々しく、インサイドの棚でバックリ開き、

サトルは両手を横に伸ばし、そのバレルのでかさをアピールしてみせた。

ジェットから一部始終を観ていた俺達は心底感動した

ザ.ウエイブ、ザ.ライド、ザ.カラー、全てが愛おしかった。

時よ止まれ、君は美しい

(市川崑監督のオリンピックドキュメンタリー映画のタイトル)じゃないが、

フィルムチェンジの時、俺はカメラを持つ手が震えたほどだった。

サトルはこの素晴らしい2本を決め大満足。

潮が干きはじめたのをいち早く察知し、

ショルダーに退いた。(クール~これで寝坊がなけりゃあなあ)

一方、ケンタはまだまだ10代のキッズ。

アカマタのスケールのでかさにあんぐり状態で、

終始チャンネル待機の、凍りつきセッションだった。

(きっと今なら、バキバキ行っちゃってるね~~)

そして、タイゾウはスケッチーなピークに手こずりながらも、

ガッツあるプルインチャージを魅せてくれたのは流石だった。

そして、2本目の板で後がない(残りは5’10”)ワキタだが、

妙に落ち着いた様子だ。

潮が動き出し、インサイドのゲボガボが激しくなってきたが、

あの一発を虎視眈々と狙い続けていた。

そして、セッション後半、ついに狙いの波が来た。

ピキピキのテイクオフをクリアすると、潮の影響なのか、

ボトムに降りる迄に、波が信じられない程ジャッキンアップしてきた。

8フットテイクオフが、ふくれあがって、

なんと10フィートバレルを形成しだした。

ワキタはなんのためらいもなく、ブレない、素晴らしいボードコントロールで、

オフショアにたなびく、その真っ青なビッグバレルに吸い込まれて行った~~

そのでかさ、クォリティたるや、

本家パイプラインとひけを取らないオーラを醸し出していた。

ワキタはディープポジションに身を置きながらも、

しっかりと出口を見据え、板をトリミングし、突っ走っていった。

最後のインサイドリーフの出口でスピッツが吹き、

ワキタのボードが見え、出て来た、、、

と思ったら、そこはもう水のないドライリーフで、

ワキタはカムアウトとともに巻き上げられ、

ドライリーフに持って行かれてしまった。

幸い怪我はなかったが、再び板を折ってしまい、

ワキタは、もう一度スペアボードを取りに行ったが、

それはあまりにも短すぎ、この波にはたちうちできず、

潮もなくなり、風もサイドに振ってしまったので、

短かった、しかし、内容の濃い、歴史的セッションを終えたのだった。
この時のセッションですっかりこの波、この場所に魅了され、

その後、年に一度はアカマタを訪れ続けてきた。

毎回違った顔を見せてくれるアカマタのブレイクは、本当に奥が深い。

正直、日本人サーファーでは手に負えない物凄さがある。

そんなアカマタデイズの中でも、とりわけ凄かったのが、

2年後の2004年6月19日の波だ。

その年は例年より早く内地が梅雨時期に突入し、

沖縄地方はすでに梅雨明けした真夏の陽射しで、

台風パッションに明け暮れていた。

確かJPSAのバリ戦がすぐ後に控えていたが、

ヌマ(カズノリ)とタカ(フクチ)を誘ってのアカマタ入りだった。

珍しくスエルだけが先に届きだし、風も天気も申し分なかった。

デイー1、デイー2と、確実にサイズアップしてき、

この時は大潮回りと重なり、

朝夕満潮時の2ラウンド、サーフすることができた。

いよいよ明日がザデイになるだろうと思われたが、

ヌマとタカは時間切れ、

バリの大会に向けて、内地に戻らなければならなかった。

本当は居てもらいたかったが、当時二人はJPSAのトップランカー、

大事な一戦をスキップする訳にはいかなかった。

それでも、ここまでのセッションで写真は残したし、

よくぞ来てくれた、頑張ってくれたというしかなかった。

ヌマとタカを空港に送り、夕方の満潮まで時間があるので、

ナオゾウはアカマタを眺望できる山の見晴し台に連れて行ってくれた。

遠くに海が見え、至る所にあるアウターリーフで、

真っ白なスープが跳ね上がっているのが見えた。

左奥に見える大きな湾に、幾十にも連なるラインアップが回り込んで、

その長い長いレフトのエッジで、豪快なスピッツが吹き出している。

恐らくこのアカマタのドセットは10〜15フィートあるだろうと目測された、、

今度は、ナオゾウのアパート、アカマタの正面からチェックすると、

グラジガンの強烈版の様な、高速レフティが唸りをあげていた、、、

ヌマもタカも帰っちゃい、サトルとタイゾウのみ、

ナオゾウは、”僕は今日、ジェットの運転手しときます~”とドン引き、、、

サトル君は正念入れ、一本だけと言って腹をくくった。

同じ沖縄でも日の入りが遅い八重山地方。

パンパン水のある満潮時のみやろうということになり、

夕方の5時頃から出動。

西に傾いた太陽からの順光が、波のフェイスを照らし、

濃紺にオレンジがかった、信じられないカラーリングを醸し出していた。

スエルディレクションはこれ以上ないパーフェクションを誇り、

アウトサイドからインサイドまで、

肩が落ちることなくバレルアフターバレルだった。

しかし、とにかく、デカイ、エグイ、青の魔物じゃ!!

セット以外は手出しできない、いや、手を出しに行ったら、

間違いなく裏の波にやられる。

しかし、セットの波に手が出ない、

どうしてもパドルが追いつかない、持ち上げられてしまう、、

結局、前代未聞のアカマタコンディションに遭遇しながらも、

まったくのお手上げセッションとなり、悔し涙を飲んだ、

2004年6月19日、アカマタのベストオブザベストデイ。

アカマタの名前の由来は、この村の祭りに出て来る、

神の戦士の名前から、ナオゾウがつけたもので、

これ以上のネーミングはないと思われる。

アカマタ攻略は、俺達のライフワークミッション。

いつの日か、またあんなザデイに巡り会いたい、

そして、納得のいく一本を決めたい。

まさにワールドクラスと言える、

日本屈指のレフトハンダー、アカマタは、

静かな南の果ての島に続く、コーラルウェイにひっそりと存在するのだ、、

 

(過去の手記より)

 

 

こうして沖縄本島・グリーンポールから始まったアウターリーフアタックは、

八重山諸島ののコーラルリーフにまで繋がっていったのだ。

(続く)

 

 

 

 

 

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