4/27 Story of The Surf Pilgrim vol-23

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

94641893_1636579033160893_385134416126541824_n

@ Red Pole  Okinawa

http://buenobooks.shop.multilingualcart.com/goods_ja_jpy_230.html

 

 

沖縄本島と慶良間諸島の間にある、慶伊瀬島(けいせしま)は、

那覇港から西に約12km、渡嘉敷島から東に約20キロの東シナ海に位置する島嶼で、

3つの環礁と3つの島から成り、現地の方言に由来する別名は、チービシ、と呼ばれている。

一番西のナガンヌ島、一番南のクエフ島、一番東の神山島、

いずれも無人島で、環礁の小さな島だ。

その島の周りはコーラルリーフで覆われ、スエルの方向と風の向きによって、

とんでもない波がブレイクすると言われている。

特に南西のスエルの時は本島よりも反応が敏感で、

まだ砂辺が腰くらいでもすでに6ft近くあるらしい。

内地から飛行機で那覇にランディングする前、

洋上に真っ白な環礁の島が見えるはずだ。

それがチービシと呼ばれている。

当時砂辺でダイビング”アイランドメッセージ”と

シーサイドホテル”ザビーチ”を経営していた、

ハル事タカハシトシハル氏は、

ダイビング船で毎回このチービシを横目に渡嘉敷島に向かっていた。

大阪から体一つで沖縄へやってき、小さなダイビング屋からスタートし、

徐々に事業を拡張して、

現在のダイビング・アイランドメッセージ、ホテル・ザビーチ、

更には砂辺の利点を生かし、外人用コンドのレンタルも成功させた経営者だ。

紛れもない大社長なんだが、その風貌はウミンチュそのまんま。

ダイビング、フィッシングを経てサーフィンにのめり込んでいったハルは、

来沖するプロサーファーや俺達取材陣をテイクケアしてくれ、

宿泊、車、船、宴など全面的にサポートしてくれた。

そんなハルに、ある日チービシに連れていって欲しいと頼んだ。

かって知ったる航路、リーフなので、任せとけ〜となり、

早速次の台風でメンバーを編成し、チービシのアウターブレイクへと臨んだ。

北谷の浜川漁港に停泊してある、ハル所有のひろ丸に10人近く乗り込んだ。

プロはカービー、シンペイ、ヒグケン、リッキーで、

後はサトルを始めとするローカルが集合した。

もちろん船の運転はハルで、一度海に出ると本物のウミンチュと化してくる。

陸ではガミガミとうるさいハルだが、

海ではホント頼りになり尊敬さえしてしまう(言い過ぎか?)。

サーファー、サーフボード、クーラーボックスには冷えた水とビールを積み、

ジェットスキーも牽引して出航〜

30分ほどで本島の景色が遠ざかってくると、チービシに到着〜

まだはっきりとしたサーフスポットがわからないので、

3つの島の周りを外側からチェックチェック。

南西のうねりに南東の風が合う場所・リーフを探し、

ようやく一番南のクエフ島の北西エッジのリーフに決まった。

そこには赤い標識灯が立っていて、

そのレッドポールにファーストブレイクが覆いかぶさってきていた。

そこからはセクショニーだがロングレフトがブレイクし、

インサイドインサイドは激浅だが、

テイクオフエリアからミドルセクションまでは水深もありサーファブルだった。

ただ外海・海峡なので、潮の動き・流れが半端なさそう〜

ハルのウミンチュナレッジで、なるべく近くでかつ安全地帯にアンカーを打ち、

しばしチェックするが、

やっぱりせっかちなカービーはやりましょう〜トライ・トライと言って、

船から濃紺の海へ飛び込んでいってしまった。

皆も続いて恐る恐るパドルアウト〜

俺もまずはボディボードを使って水中撮影を試みたが、

やはり流れがきつく、思ったポジションをキープできなかった。

船に戻ろうとすると、

それもまた凄いカレントだったのでロープを投げてもらったほどだった。

原始の力は諦めて、牽引してきたジェットスキーを使う事にし、

ハルの双子の兄・トシ(顔そっくり)の運転で再びラインアップに戻った。

したらピークにいたカービー達が、レッドポールに登って、

そこにセットが来たら、

ポールから飛び込んでその波に乗っていったりして遊んでいた。

見た目よりホローして来ないので、ノーチューブセッションだったが、

カービーがインサイドで捉えた波はスティープしたテイクオフからそのままプルイン〜

トシの運転するジェットも抜群の位置にいたため、

ようやくバレルショットを収めることができた。

しかし当のカービーはインサイドで苦しそうにしていた。

片腕が上がらないのかパドルもままならなかった。

助けに行こうにも、波は来るは、浅すぎだはで、カービーの自力脱出を待った。

やがてカービーはスープの外まで出てきたので、ジェットで迎えに行くが、

どうやら肩をボトムにヒットして外れたようだった。

だからジェットのスレッドにも上がることができず、

大丈夫な方の片手を取り、そのままゆっくりと引きずりながら船まで連れていった。

皆はカービーの怪我のことなど知らず、アウトでサーフィンしていた。

カービーは船に上がると、腕を抑えながら横になった。

さっきのかなり苦しそうな顔より幾分マシになったようだった。

緊急事態でもなさそうなので、

カービーを船に置いて俺とトシはまたラインアップに戻っていった。

しばらくセッションを続けていると、ハルがサーフィンを終え船に戻り、

カービーの異変に気が付いた。

真夏の沖縄、寒くもないのにカービーは横になりながらガタガタ震えていたと言う。

ハルはすぐにエンジンをかけ、アンカーを外し、

凄い剣幕で皆を招集し、猛ダッシュでチービシを離れ、

北谷ではなく那覇に向かった。

俺とトシには、なんでカービーが怪我してるのにほっておくねん〜と激怒。

海・船の上では船長がボス、ハルの判断でセッションを終了し、

まずはカービーを那覇港で下ろし、迎えに来ていたスタッフが病院へ連れて行き、

俺らは北谷の浜川港へ戻ると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。

ここで終わらないのが沖縄スタイル。

そのままハルの経営するザビーチホテルの5階にある

ホクレアレストランで宴に入っていった〜

さっきまでのお怒りモードからすっかりご機嫌モードに戻ったハルは、

今日のチービシの事で話が盛り上がり、ポイント名をレッドポールと命名した。

やがてカービーも病院から戻り、元気にドリンクオン〜

でも今尚このチービシの事故がトラウマとなり、

沖縄のシャローリーフ、怖いです〜だって〜

普通では行けない、味わえない、経験できない、

貴重なチービシセッションをメイクできたのも、

ハルの船があったから、いやハルの熱血があったからこそ出来たんだと思うし、

沖縄が一体となったセッション、

不可能を可能にしたハプニングであったと振り返ることができる。

 

 

 

 

 

スクリーンショット 2020-04-28 4.38.52スクリーンショット 2020-04-28 4.40.02

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の記事

関連する記事