4/24 Story of The Surf Pilgrim vol-21

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

94702627_262299138136189_1600244448724254720_n

Satoru Nakachi @ Green Pole  Okinawa

http://buenobooks.shop.multilingualcart.com/goods_ja_jpy_230.html

 

 

先の奄美大島の記事でも書いたが、

奄美滞在中に単身初めて沖縄を訪れたことがきっかけで、

その翌年・1989年初の沖縄取材を行うことになった。

当時バリで沖縄サーファーのほとんどはクタのど真ん中にある、

”スワルダナ”ロズメンを拠点とし、ウルワツ、パダンをはじめ、

サトル(ナカチ)に至ってはグラジガンに籠りっきりのサーフィンライフを送っていた。

俺もその頃はすっかりインドネシアジャンキーとなり、

毎年梅雨時期になるとバリに居たので色んな場所でオキナワンと出会っていた。

サトルを初めて見たのはパダンパダンだった。

当時パキパキアップカマーのサトシ(セキノ)や、

イマス(ノブマサ)を引き連れて、

ウルワツ~パダン/サーフコンバットを敢行していた時のことだ。

待ちに待ったパダンパダン/ザデイの時、

チャンネルから水中ハウジングを構えていたら、

同じ日本人だが俺等のメンバーではない一人のグーフィーフッターが、

美しいフォームで潔いプルインを繰り返していた。

名前を聞くと、横分けで可愛い顔(当時はね、、、)をしたそのサーファーは、

”サトルです”とはにかみながら答えた。

これがサトル君との初めての出会いだった。

そのバリトリップで、俺にとって2度目のグラジガンを訪れた時、

キャンプで働くバリニーズやジャワニーズの人達から、

サトゥ、サトル、の名前をよく聞かされた。

その頃のサトルは毎年二ヶ月のインドネシア滞在中の

ほとんどをこのG-landで過ごしていたという伝説がある。

キャンプの皆から慕われ、ハイタイド、ロウタイドを問わず、

一日何度もこのリーフを歩き、このリーフの上をグライドし、

リーフの隅々までマスターしていったナカチサトルが

グラジガンで培ってきたものは計り知れないものがある。

そんなこともありこの時のグラジガントリップでは

沖縄のチャビーやミツグ達と一緒になり、

楽しいキャンプ生活を共にしたこともあった。

話を沖縄に戻し、奄美から単身沖縄に渡った俺は

サトルやチャビー、ミツグ等と再会し、カズボウやイサオさん達と出会い、

沖縄への第一歩を踏み出した。

翌年、初の沖縄取材には、

イマス、ボーチャン(ホンジョウ)、アキラ(シンドウ)が参加してくれ、

当時大磯に出て行っていた地元沖縄のリッキー(ヒガ)も同行してくれた。

滞在が長引きそうなので、

当時砂辺にリキットサーフショップがあったアパートの3階に住む

ナイチャーのチエちゃん&サナエちゃんの部屋の半分を使わせてもらった。

毎日の集合場所は1階のリキットで、

潮が上げて来ると誰かれが集まりだし賑やかになり、車に分乗し海に向かった。

そして今度は潮が干くとまるで何事もなかったかの様に静まり返る、

このギャップにまず驚かされた、、、

そして帰って来た部屋はクーラーかけっぱなしでキンキンに冷えている。

内地じゃ考えられないが、一度消すと冷える迄に相当時間がかかるので、

どこの家もそんなだという。

物価は安く、住んでたアパートの下にあった

”なじみ食堂”では400円の定食でも食い切れない程の量だったり、

ソバも200円で並み盛り以上だったりと、

とにかく安くて腹一杯食えるというのが沖縄の特徴だった。

来沖してからは東面に波が続き、連日ゴッドアイランドに通い続けた。

本島南東部・知念村に住む、

島への郵便配達から緊急時の搬送まで請け負っている、

大城さんのポンポン船で毎日その島へ運んでもらった。

島の港に着くとすぐ目の前に長い堤防があり、その向こうにリーフが広がり、

長いレフティが左から右へ規則正しくブレイクしている。

水のクリア度は半端なく、港の中も外もコーラルリーフが透けて見える程だ。

沖縄のどこのポイントもそうだが、潮ののってる時でしかサーフできないので、

ゴッドアイランドでは満潮を挟んでの2時間とされ、

その時間帯目掛けて行きササ~っとサーフし、ササ~っと帰るって訳。

でなきゃティーダ(太陽)カンカンとコンクリートの堤防に挟まれ、

焦げ焦げトーストになっちゃうくらいの熱さにやられてしまう。

台風接近に伴い日一日とサイズアップして来るゴッドアイランドのレフト。

確実にタイフーンスエルが入り出して来た。

本島からゴッドアイランドに行く途中何カ所かアウターリーフがあり、

そこにも白波が見えだして来た。

ゴッドアイランドに一番近いアウターリーフ(つまり本島からは一番遠いリーフ)の、

ライトの切れ端には緑色の船舶標識がたっていた。

そこのリーフはいつもゴッドアイランドより2倍近くのサイズがあり、

そのブレイクはまるでタヒチかフィジーの様だった。

ゴッドアイランドからパドルで行けない距離ではないが、

行く迄の深いチャンネルを大型船舶が行き来しているのと、

もし行って板を流せば帰って来れなくなるというリスクもあり、

まだ誰もやったことがなかった。

とうとうゴッドアイランドのレフトがマックスオーバーとなり、

例のグリーンポールのアウターリーフには

6~8~プラスのビッグスエルが押し寄せ始めていた。

俺はどうしてもあのグリーンポールでセッションしたくて、

船頭の大城さんに連れて行って欲しいと頼んでみた。

真面目で意志の固そうな大城さんだが、

この日までの俺等の熱意が伝わったのか予想外に承諾してくれた。

その頃サトルは米軍基地の中のレスキュー隊員で、

丸一日勤務丸一日休みというローテーションで仕事/サーフィンをしていた。

丁度タイミング良く翌日は勤務明けで朝から動けるとのことで、

いよいよ明日のザデイに備えた。

この時はまだタヒチやフィジーにも行ったことがなく、

ましてやアウターリーフなんて経験したこともなかったが、

やろう、やってみよう、というパッションだけは凄いものがあった。

その日は夕方の満潮時を狙い昼頃から動きだし、いつもの港に各々が集まり、

いつもより長めのボードを大城さんの船に積み込み、いざ出陣となった。

グリーンポールに近づくとサーフィン映画に出て来る様なビッグウェイブが

ポールを飲み込むようにけたたましくブレイクしていった。

どう見てもライトはトゥーシャロー、、、行けないねってことなり、

今度はレフト側から見ようとピークの沖を回ってもらった。

しかしライトの様なチャンネルがなく、

船はレフトのショルダーの沖にまでしか入れず、

セーフティゾーンがどこなのか正直わからなかった。

それでも波の裏側から見る限りだと一応は綺麗にブレイクしているようだけど、、

潮がある内、満ち込んでくる内にやろうぜ!ということになり、

皆、前人未到のこのアウターリーフのレフトへ恐る恐るパドルアウトしていった。

船頭の大城さんには沖で待ってもらい、

いざ板をなくした場合はとにかく泳いでアウトに出て、

船に戻れということにした。

次々と海に飛び込むサーファーを見て大城さんは本当に心配そうだった。

最後に俺がカメラと共に飛び込み、様子見ながらショルダーに近づいて行った。

一応6フィートくらいなら切れ目があるものの、

もっとでかいセットがくれば今居る位置だと喰らうかな~という不安はあった。

とにかくリーシュが切れないこと、

ラグーンに打ち上げられない様にサバイブしなければ、、

一方サーファーはピークのダブルアップに翻弄され、

ミドルの4~5フィートの波はファーストリーフで割れ普通のブレイクだが、

6フィートを超えると棚持ちせず、ダブルアップとなって押し寄せ、

ファーストリーフで一気にティックなリップが飛び出す、

沖縄独特のガタ~~ンブレイクとなった。

サトルは体でそういう波に慣れているのか、

スムースに引っ掛け絶妙なテイクオフを披露してみせた。

しかしバレルになる波はあるんだがその波を選びきれない、

バレルに入るタイミングが掴めないというのが現状だった。

夕方になり北寄りの風が緩い北西に変わり、

西日がまっすぐフェイスに当たりだし

エクセレントなコンディションになってきた。

気分も上々これでエピックライドがあればな~~~なんて調子こいてたら

突然8オーバーのフリッキンセットが来襲した!!!

アウトへショルダーへと逃げるも、ぱっくりボウルに囲まれ、

全員ノーエキジットでそのドセットを喰らってしまった~~~

俺はややショルダーだったため難を逃れたが、リッキーはブロークボード、

アキラは板を流してしまいインサイドのインパクトゾーンを泳いでいる。

イサオさんは漁師のナレッジで、

危険を察知してラグーンに入りアキラのボードを探していた。

セットが止んだ隙を見て二人は沖へ泳ぎ、無事船に戻ることが出来た。

そんなこともあってピークに人が居なくなった時再びセットが入った。

今度はサトルがポジションにいた。

濃紺の分厚い外海の波がアウターリーフに引っかかり、

グバ~~~とせり上がって来た。

いつもの神業とも言えるダブルアップテイクオフをメイクし、

ガタンと底がなくなるファーストブレイクを伸びるボトムターンでスルーすると、

俺の目の前でサトルは本日のベストバレルに包まれて行った。

シャープでスクエアではないが、グリーンポールならではの、

厚く、重い、荒々しいバレルを見事メイクしていった~~~

やったぜ~~最高~~~なんて思っていたら、

沖で待機している大城さんの船からサイレンを鳴らす音が聞こえてきた。

どうしたんだろう?と思って目を凝らして見てみると、

船から大城さんの上がって来なさいコールが出されていた。

まだもう少しセッションを続けたかったが、

大城さんの尋常じゃない動きに皆慌てて船に戻った。

やはりさっきのドセットでリッキーとアキラが板をロストし、

泳いで船に戻って来たことで、大城さんは命の縮まる思いをしたという。

もうこれ以上何かあってはいけない、耐えられない、もう勘弁してくれと、、

大城さんの気持ち、本業、立場を考えると当然のことで、

俺等も潔く初のアウターリーフセッションを終え帰路についた。

俺は大城さんに心配かけたことを申し訳なく思い、

運転席で険しい顔をしている大城さんに謝りに行った。

すると大城さんはいつもの口調で

(やや沖縄方言が強くよくわからないとこもあるんですが、、、)、

”いや~オジサンびっくりしちゃったよ~

皆あんなでかい波に乗ってよく大丈夫だね~~

海でずっとこの仕事してきたけど、ほんと今日は驚かされたよ~~

でももうこれっきりだよ、

もうオジサンあそこには連れて行かないからね、、、”と。

そして港に着くと大城さんが、”家に寄って行かんかね~”と言われた。

その時俺はわからなかったが、

大城さんと長い付き合いのイサオさんでさえ家にあがったことがなかったという。

港近くの昔ながらの沖縄の家には入ってすぐに大きな居間があり、

その正面にデ~ンと仏壇が供えてあった。

ここまで昔ながらの民家に入ったことがなかったので

(砂辺エリアはアメリカンスタイルなんで)、

普通の大城さんの家でさえ間取りが衝撃的だった。

ビールが出され、泡盛が出され、おつまみにゴーヤチャンプルーや刺身も出され、

今日の出来事を皆で語り合い、楽しく飲んで食べた。

寡黙で優しいウミンチュの大城さん(先年、病で亡くなられた、、、)とは、

その後もゴッドアイランドに行く時はいつもお世話になったが、

グリーンポールの話になると、決まって苦笑いするだけだった、、、

このアウターリーフセッションによってがっつり沖縄の魅力に取り憑かれた俺は、

以後毎年台風が発生すると沖縄へ飛び新たなサーフサーチを続けてきた。

その全ての源・原点は、この年のこの出来事にあるのだ。

 

 

 

 

 

img186@ Green Pole

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の記事

関連する記事