4/21 Story of The Surf Pilgrim vol-19

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Rainbow  Nihonkai

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1981年の冬からこれまでの40年、

俺は日本の冬知らずでずっとハワイ・ノースショアに通い詰めて来た。

つまりずっと日本の正月時はハワイで過ごして来た。

そんな中、2007年・48歳の時に離婚騒動となり、

いつものルーティンであった海外取材に行かず、

ひたすら日本に滞在していた年だった。

精神的にもかなり参っていた時期だったが、

海・波・サーフィン・仲間・写真があったから、

なんとかこの辛い時を凹まずやって来れたのだと思う。

そんな訳で自分的にも区切りをつけるため、年が明けてからハワイに行こうと、

これまで経験した事のない秋から冬の日本取材に入っていった。

当時雑誌サーフファーストの編集部が逗子海岸の近くにあり、

俺は編集部の2階に寝泊まりしながら、波が立ちそうになると、

湘南を始め、北は千葉、茨城、福島、山形、宮城、岩手、青森、

南は静岡、愛知、三重、和歌山、四国、九州、沖縄、

へとフットワークよく動いていた。

そしていよいよ冬真っ只中の12月に入ると、

今度は日本海にフォーカスしていった。

特に京都・丹後から福井・若狭には数え切れないくらい出向いていった。

そんな日本海取材にいつも付き合ってくれたのが、

大阪のカメちゃん事フルカワイサム君だった。

カメちゃんは10代の頃スケーターとして日本チャンプとなり一世を風靡し、

今度はプロサーファーとして一年目からセンセーショナルなデビューを果たし、

一気に日本のトップコンペティターの位置にまで登り詰めたサーファーで、

今は地元大阪でサーフショップ・ブティック・”CHUG”を営み、

55歳になった今もサーフジャンキーの熱は冷めることなく、

大阪から海へ、のスタイルを元気に実践しているレジェンドだ。

このカメちゃんからは日本海のことを多く学んだ、

ポイントの事、ローカルの事、気象条件の事などなど。

運転はいつもしてくれ、俺のチーペストスタイルにも合わせてくれた。

スエルが小さければ丹後のビーチ、

スエルが大きければ若狭リーフという方程式で、

メンバーを入れ替え、大阪から何度も何度もその冬は日本海に通った。

丹後は突出した半島なのでスエルは敏感に拾うが風の影響が受けやすい。

一方若狭は湾内なので風をかわし、スエルも整頓され、

リーフもサイズをホールドするのが特徴だ。

この若狭には2つの代表的なポイントブレイク、リーフブレイクが存在する。

トップの雪化粧されたレフトハンダーはレインボー。

北西のスエル、西〜南の風がオフショアとなるポイントブレイクだ。

このレインボーを取り仕切るのがソングさん事ナカイソング氏・64歳。

ソングさんとレインボーとの出会いは古く、

ソングさんが20歳の時、つまり44年前になる。

その後1995年から伝統あるレインボーカップが、

波がパンプした時にだけ開催されるようになり、

2000年からソングさんを中心としたレインボーサーフィンクラブが発足された。

レインボーの駐車場の片隅にプレハブの掘っ建て小屋があり、

その中でストーブを焚き、暖をとり、厳寒の冬を過ごして来たという。

その掘っ建て小屋も3年前の台風で吹っ飛んでしまったが、

今はまた皆の協力の元、もっとしっかりとしたクラブハウスが出来上がった。

レインボーはクラシックなレフトのポイントブレイクで、

サイズも6オーバーでもホールドする事から、若狭最後の砦とも言われている。

取材で何度もお邪魔し、狭いクラブハウスで鍋や肉を焼いてビールを飲み、

酔って騒いでそのまま雑魚寝したり、

夜寝てたら嵐が来て、クラブハウスごと飛ばされるかとおったまげた事、

朝起きると一面白銀の世界に変貌していたりと、

いろんな冬の厳しさ楽しさを経験した。

もうひとつ、若狭にあるSPと呼ばれるライトハンダーは棚割れのリーフブレイクで、

ファーストブレイクではビハインドからのチューブセクションもあるコアなスポットだ。

オートキャンプ場の目の前にあるので、駐車・宿泊の環境は整っている。

このSPはイマイシンジ君、ヤマダユウジ君、マスオカマサヒコ君達、

他京都市から通うサーファーによって独自のコミュニティが出来上がっている。

ムードある和風の松の木の向こうで炸裂するライトハンダーのバックには、

小浜湾を覆うような内外海半島が聳えて見える。

そして2007年最後の日本海取材、キンキンの西高東低気圧配置で、

カメちゃんらと若狭に向かったのは年の瀬。

丹後〜若狭を行ったり来たりしながら、いよいよ大晦日の夜、

俺たちは小浜市に実家を持つ、

CHUGチームのシゲ事ツボウチシゲユキ君の家に襲撃〜

大晦日に俺ら4人、それも突然お邪魔したにも関わらず、

シゲのファミリーは快く迎えてくれ、年越しそばやご馳走を振舞ってくれた。

冷えた体も家の中の暖ですっかり温もり、

ビールも進み、ワイワイはしゃいでいたら、

外からゴーンゴーンと鐘のなる音が聞こえて来た。

もう長い間日本の大晦日や正月を過ごしてなかった

オイラは耳鳴りがしてるのかな?と思った。

やがてこれは除夜の鐘の音なのかと理解し、窓を開けて聞き入った、、、

ゴーンゴーンと神々しい鐘の音を聞いていると、

空からひらりはらりと雪が落ちて来た。

日本海・若狭・小浜・シゲ宅・除夜の鐘・雪・年越し、、、

何だか感傷的になり一生忘れらない一夜となった、、、、

翌朝、2008年1月1日元旦、外に出ると昨夜からの雪で一面白銀の世界。

カメちゃんの車はスタッドレスタイヤを履いていたので、

これくらいの雪道は大丈夫だった。

たっぷり熱湯をポリタンクにくんで、

SPへ行くと4〜5ftの波がパッコーンと炸裂し、

バックに見える内外海半島の山はすっかり雪化粧されていた。

今冬日本取材の大きな目的としていた雪のラインアップショットを、

ようやく年が改まった元旦に撮影することができた。

やがて吹雪いて来たのでカメラをしまって、ゴーサーフ!!

シンシンと雪が降る中サーフするのなんて初めてだったが、

カメちゃんにキャップまで借りてパドルアウト〜

キンキンに冷たい海で波をゲット〜

雪が目にかぶさって来て前が見えにゃい〜

と、ワイプアウト〜〜

グリグリっと巻かれて水面に上がるとあたりは真っ黒、更に息が苦しい、、、

え〜、とかなりパニクったが、揉まれているときにキャップがクルリと回り、

顔を覆ってしまったからだ。

スープを喰らいながらながら何とかキャップを脱ぎ、

こんな怖い目にあうなら要らないと思い、

その後はキャップ無しで雪の中でサーフ、

体が芯から冷え切った初のスノーセッションだった。

ホットシャワーをたっぷり浴び、

体を温めてから今度はソングさんの待つレインボーへ〜

雪はさらに激しさを増し視界も悪くなって来た。

果たしてレインボーに着くと3〜4〜のレフティがピーリング〜〜

クラブハウスも、駐車場も、ビーチも、港も、家も、山も、

雪雪雪に覆われ真っ白の世界だった。

波はあったが俺とカメちゃんはもういいやとなり、

一緒に行った二人のボーイズは元気にサーフ。

その間にレインボーの全景を望める山へハイエースで向かった。

かなりの坂道・雪道だったので流石のスタッドレスも

スリップしながらも登っていった。

ようやくレインボーのラインアップが一望出来る所に着くと、

遥か向こうには福井県と滋賀県の境に聳える比良山系が見え、

すっかり雪化粧された美しい山並みを見せてつけてくれた。

これが日本の冬、日本海の冬なんだと心底感動した。

しかしすぐにまた天候は変わり吹雪だし、視界が悪くなって来たので、

山を降り、雪の日本海から撤退する事し、大阪までの帰路、

徐々に雪がなくなり、段々と都会になっていく。

さっきまでの目の前に広がっていた神々しい景色は一体何だったんだろう、、

この2008年元旦の雪の日本海のラインアップを拝み、

俺の中での色んな踏ん切りもつき、

3日後の1月4日、遅くなったが俺はハワイへと旅立った。

その年のハワイは稀に見るバッドシーズンで、

ここまで一度もパイプがなかったと聞かされた。

しかし俺が到着した翌日から突如パイプが覚醒し、

俺はいつものようにチャンネルから水中撮影し、

ここに戻ってこれた事に喜び、感謝の気持ちで一杯になった。

厳寒の日本海も、常夏のハワイも全てサーフィン。

俺は冬の日本海からサーフィンとは?と色々な事を学ばされた。

 

 

 

 

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