4/20 Story of The Surf Pilgrim vol-18

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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93791883_1912993022164225_4653172108266831872_nMasatoshi Ohno @ The Box  Nihonkai

 
波巡礼物語、舞台は九州・宮崎から日本海へ〜

日本海といっても北は青森〜秋田、西は島根〜山口と長く広い。

ここでの話はあえて場所は特定しないが、皆さんもよく目に耳にするボックスのお話です。

俺たちはウエスタンオーストラリアのボックスに似ている事、

波・チューブの形から勝手にボックスと呼んでいるが、

このポイントのファウンダーであるシェーパーのロクさん事イマイカツヨシさんは、

地元の海の瀬の名称からカマヤと呼んでいる。

山陰ジオパーク国定公園の中にひっそりと存在するボックスは日本一とも言えるスラブで、

美しくも一度牙を剥けばサーファーを寄せ付けない猛威をふるってくる狂気のリーフブレイクだ。

そんなボックスとの出会いは10年以上前になる。

ひょんなことから日本海に凄いスラブがあると耳にした。

好奇心旺盛なオイラは取材で日本海に行く度に色んな所をチェックして回った。

ある時この辺かな〜?と思ってチェックしたら、

オンショアながらも一箇所の棚でボコッと掘れた波がブレイクしていたので、

ここが例のスラブだと確信した。

その後日本海を訪れる度にとにかくチェックだけは欠かさなかった。

ある時はフラットだったり、ある時はオンショアだったり、ある時はデカ過ぎたりと、

色んなコンディションを見、小さい時には自分でボディボードをしたりして煮詰めていった。

そして、2009年秋、四国・高知でタイフーンスエルによるフォトセッションをしていたが、

台風が日本海を抜けていく予報となったので、今度は太平洋側から日本海側へ移動〜

四国からハヤシケンタ、キリズメヒデトシ、京都からマヤグチタカヒデ等が日本海に集まった。

確か2日くらい台風が抜けるのを待って、放射冷却の朝ビーチをチェックすると、

雲一つない100%青空、キリッとしたオフショア、

そしてオーバーヘッドのグランドスエルがラインアップ〜

これこそが待ち望んでいたコンディション、早速ボックスをチェックに行くと、、、

これまでに見た事もないクリーンなAフレームの波がボックスの棚で炸裂している〜

これまでもそうだったが、人里離れた場所なので誰もいず、

たまに見かけてもマニアックな釣り人くらいしかいなかった。

よし、やるぞ!となり、崖を降り磯の間からチャンネルを通ってパドルアウト〜

ブレイクが近づいてくると岸で見るより数段サイズがあった。

ビローシーレベルと言って、ボトムが更に凹むので陸からでは正確に判断できない。

しかしこの日のコンディションは、

今まで数え切れないほど見て来たボックスの中でも最もエクセレントと言えた。

絵に描いたようなAフレームの頭が逆三角形のリップカールとなりボトムに突き刺していく。

チューブはポッカリと開き、グーフィー側からレギュラー側の景色が筒抜けで見ることができた。

テイクオフポジションにラインアップしたケンタはおっかなびっくり1本目の波に手を出した。

ピークのビハインド・ライト側からバックサイドグラブレールでプルイン〜

見事一発目からメイクして来た。

初めてのスラブポイントで、海・波・リーフ・ブレイクを見切ってのポジショニングは

流石ケンタ、と言うしかなかった。

しかし当のケンタは、思ったよりも浅く底掘れ、思ったよりもリップの水の量が多い、

何よりも立てる(テイクオフ)タイミングの狭さから、実は恐怖心で一杯だったと言う。

その後も悪戦苦闘しながらのセッションが続き、今度はライトも良くなってきた。

ライトにはレフトの様なしっかりとしたチャンネルがなく、

次のリーフも続いているため、決まった時でないと比較的ダンパーブレイクとなってしまうが、

この日は珍しくAフレームのままで不思議とライトも切れていた。

水中撮影のポジションをライトに移動すると、また違ったポイントに来た様なフレッシュなモードになった。

たまに左に外れてくるセットだけを気をつけていれば、

ライトのタイトなチャンネルをキープ出来た。

そんな中久々のドセットが来た。

ケンタはレギュラー狙いでずっとビハインド・右沖奥のポジションに居た。

ケンタの言葉を借りれば、ライトを狙う時には通常ブレイクする棚より、

数十メートル右沖にある棚でうまく引っ掛けると、ウネリで立て、

そのままビハインドからイージーにプルインできると言う。

そしてケンタはその言葉通り実践して見せ、

まるでTOW INしたかの様なビハインドからのライン取りでプルイン〜

そのケンタのショットは当時の雑誌SURF1STのカバーを飾った。

初めてのボックスで最高のセッションを記録することができ、

最高の気分で日本海取材を終え、やがてハワイ・ノースへと旅立ったが、

その後このポイントでサーフするローカルが炎上してしまった事を聞いた。

当時サーフファースト編集長だったアカイトクシ君はローカルと話し合い、

なんとか記事にするところまでは了承を得たが、

俺がハワイから帰国したらローカルに挨拶しに行くことになった。

昨年マスターが亡くなり閉店してしまった鯖定食のうまかった居酒屋・船多慶に、

編集長のトクシと向かい、この時初めてロクさんと知り合うことになった。

ローカルサーファーのハタ坊も同席し、

あそこはローカルスポットです。勝手に撮影するのがあなたのやり方ですか?と怒られた。

ロクさんはやんわりと、やるならやると一言言ってくれれば、、、とお叱りを受けた。

それからはビールを飲みながらいろんな話をした。

で、今後やる時ははロクさんに連絡すると言うことで一旦ケリがついた。

その後はロクさんに連絡し、ロクさん監修の元でボックスの撮影をやる事になった。

それでもまだ撮影した写真や映像が使えない一年があった。

やがてボックスをやる数人のサーファーで話し合い、

プロのセッション場として認めてくれる様になった。

こうしてボックスの小さな扉が開いたと思ったら、

急に多くのプロ、スキルのないアマチュア、ボックス事情を知らないカメラマン等が

スエルが上がる度に押し寄せる様になった。

ロクさんはその度に連絡が来て、現場に行き、

一体どこからどこまでやらなければいけないのか困惑してきた。

そんなボックスでとんでもない事件が起こった。

2016年12月24日、まさにクリスマスイブの夕方だ。

波は完全マックスオーバーの8〜10〜

オンショア・ストーミーコンディションだったが午後4時頃からオフショアになり、

大阪のビッグウエーバー・カネダキヨシが夕闇迫る中パドルアウトした。

一旦沖に出たもののとてもじゃないが手がつけられないと思い上がろうかとした時、

特大のこれだと言うセットが来た。

キヨシはアウトの棚で引っかけテイクオフ、ボコボコのフェイスを駆け下りていき、

プルインのタイミングを伺っていたが、

タイミングが合わずインサイドの棚の所でワイプアウト、

前に飛び込んだら、超インパクトゾーンで巻き上げられ、

そのままリップもろともボトムのリーフに叩きつけられた。

それも尻もち状態で、地面が脳天を突き破った様な衝撃だったと言う。

意識はまだあり、その後3本のセットを食らい続け海面に上がれなかったらしい。

激痛に耐え、リーシュを手繰ってサーフボードに捕まり、力なく浮遊状態だった。

見る見るうちにインサイドに聳える崖が迫ってき、ああもうぶつかる〜と思ったら、

ギリギリ崖の縁でかわし吐き出されたが、今度は突出したリーフに叩きつけられ、

あばら骨を折り、今度こそ死ぬのか、意識が朦朧とし沈んでいき、苦しさから楽になっていった時、

ご先祖様のお爺ちゃんとお婆ちゃんが出てきて、キヨシ、頑張りなさい、生きなさいと告げられ、

ハッと意識が戻り、まるでポパイがほうれん草を食べた時の様に力が出たと言う。

そして遠くに見えた灯台の明かり目指してパドルし、

港に入ったあたりで再び意識がなくなったと言う。

ちょうど地元のお爺ちゃんが港に出てきていて、

キヨシの姿を見つけ警察や救急に連絡し一命をとりとめた。

サーファーの事故なので当然地元のロクさんにも連絡が行き、

ロクさんが現場に駆けつけると、”つ”の字の様に背骨が曲がったキヨシの姿を目にし、

心臓が止まるほどのショックを受けたと言う。

キヨシが死んだら、、キヨシが不随になったら、、、と祈る思いだったと同時に、

もうカマヤのリーフなんか爆破して無くしてしまった方がいい、

とまで追い詰められた気持ちになったと言う

その後キヨシは強靭な体力を持って奇跡的な回復を見せ、

4ヶ月後にはパドルするまでなった。

この事件後ボックスでのサーフィンはしばらく禁止となり、

ローカルも立ち入ることがなかった。

ハワイから帰国した俺はとにかくロクさんの元に出向いた。

いつもの居酒屋船多慶でビールを飲みながら鯖定を食って

ロクさんとキヨシの事、ボックスの事を話し合った。

胸のつかえがとれたのか、ロクさんはボロボロ泣き出し、

キヨシの姿を見たときは辛かった、、と、、

ボックスの発見者であり、責任者であるが故、

ここで起こった悲惨な事故が重く自身にのしかかったんだろう。

その後のボックスは、プロそれも腕のあるものだけ、

アマチュアはダメというルールが出来上がり、

メディアも誰も彼もを受け入れることはできない

という暗黙の決まりが出来ていった。

ローカルがひっそりとサーフするボックスから、

ケンタのファーストアタックによって秘密の扉が開き、

今度はキヨシの事故により封鎖され、

今またボックスは新たな時代に突入していきつつある。

ケンタ、タカヒデ、シンペイ、ユウジロウ、キヨシ、ヒデヨシ、

セキモト、ケイト、マー、シュン、タツヤ、オオハシ、ジョー、

シュウジ、ユウジ、サスケ、コウタ、

といったサーファー達がこのスラブにアタックしていき、

素晴らしいセッションが展開されていった。

俺の勝手なイメージだが、ジョンジョンなら、ケリーなら、ガブなら、

この凄まじいスラブをどうやって攻略するのかな?

きっと彼らなら度胆を抜くアプローチ・パフォーマンスを魅せてくれるに違いない。

でもやっぱ俺は日本人に乗ってもらいたい、魅せてもらいたい、

そんな想いを胸に、

西高東低の気圧配置になると日本海に向かって爆走してるんだぜい。

 

 

 

 

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2010年2月号のサーフファーストで、衝撃的なボックス特集がパブリッシュされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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