@ Lafitenia France 1990
本日のノースショアも、0〜1〜の雨、、、、とほほ、、、
一気にノースショアシーズンの幕が閉じたような静けさだ、、、、
ところで去る2月21日から、ダブの会長・トクラヤスモリ氏が久々ハワイに来て、
現在うちにステイしている。
トクラさんとは、1979年初めての海外旅行・オーストラリアで知り合って以来、
国内は元より、ハワイはもちろん、ペルー、ツアモツ、メンタワイ等、世界の波を求めて旅してきた。
今回はそんなトクラさんと旅したヨーロッパ・ノースアフリカトリップのお話お話し〜
@ Coxos Portugal 1990
1989年と、1990年の、2度ヨーロッパを旅した。
初めての年は、サウスアフリカに行き、ひょんなことからレユニオンへ行くことになり、
そこでまた旅の道が開け、一旦サウスアフリカに戻り、
そこから糸の切れた凧の様に、フランスへ飛び、スペイン、ポルトガルへと放浪していった。
すっかりヨーロッパ好きになった俺は、
翌年、ヒデ(アライヒデオ/大阪出身の元プロサーファー)を誘って、
ヨーロッパからアフリカまでの縦断ツアーを敢行した。
ダブのトクラさんも、前半のフランス~スペイン~ポルトガルまで、一緒に旅した。
前年は無計画だったので、バスに乗り継いだり、誰かの車にジャンプインしたり、
かなりハチャメチャな動き方だったが、
この時はトクラさんが、長い道のりのことを考えて、素敵なボルボのハッチバックを借りてくれた。
旅のスタートは御フランス(ザ~マス~)。
俺とヒデは、南回りの格安航空チケットで、パキスタンのカラチに寄ったり、
ドバイでトランジットしたりしながら、パリのオーリー空港に着くはずが、
何故かドゴール空港に着き、荷物と離ればなれになったりしながらも、
無事、ビアリッツに辿り着く事ができた。
IPSサーキット(今のWSL)のヨーロピアンレッグが、
フランスのラカナウから、ハセゴ、ビアリッツへと移動してき、
日本からは、サトシ(セキノ)とダイチャン(イマムラダイスケ)が参戦していた。
今回はコンテスト組とは別行動で、俺とヒデ、トクラさんは、
ビアリッツの町から少し南に外れた、スペインとの国境に近い、
ラフィテニアというポイントの丘にあるキャラバンパークに陣を取った。
オーストラリアにもある様な、小さなキャラバンの中は、
3人が丁度ハマるベッド、キッチンがついていて、
そのキャラバンの窓からは、眼下にラフィテニアのラインアップが一望できる、
サーファーにとっては言う事無しのシチェーションだった。
物価の高いフランスとして考えれば、かなり安く宿泊でき、自炊もばっちり、
更にスペイン(ムンダカのレフトを狙っていた)にも近く、
コンテストが行われているビアリッツもすぐそこなので、動くのに便利な場所だった。
朝起きて、波があれば、キャラバンでウエットスーツに着替え、
そのまま段々畑にあるような階段を降りて、ラフィテニアのラインアップへパドルアウト。
ラインアップからは、自分達の居るキャラバンが見え、
回りはバスクカウンティーの美しい山々に囲まれ、何とも言えない優しいムードに包まれた。
このエリアをバスクといい、昔はフランスでもなく、スペインでもなく、
バスクとして独立していたという。
その文化、風潮から、今もこのエリアに住む人達は、自分達はバスク人と自負している。
ラフィテニアのキャラバンを拠点に、北に走ると、お洒落なビアリッツの町があり、
ショッピングやお食事には事欠かない。
町の中心から、扇状に坂道が何本も枝分かれし、
その通り沿いに素敵なカフェや、ジーンズショップ、
海沿いの通りには、シーフードレストランが林立し、
道はルノーやシトロエンのコンパクトなヨーロピアンカーが行き交い、
御フランス独特のきつい香水の臭いを振りまきながら、闊歩するフレンチ姉ちゃん、
ビーチではもうスッポンポンで、皆日光浴といった、
フランスならではのビーチカルチャーをまざまざと見せつけられた。
西に走ると、高速道路上でスペインとのボーダーがあり、
パスポート、車のレジストレーションを見せるだけで通過でき、
通貨(ギャグじゃないよ)は、今の様にユーロでまだ統一されてなくフランからペソに変わる。
スペインに入国してまず最初の町が、サンセバスチャン。
昔ながらのヨーロッパというか、バスク地方独特の古い渋い町並みだ。
高速を降り、町を抜け、とにかくビーチチェック~~~と、海辺のパーキングに入って行くと、
そこら中で若者達が、ハッシィを煙草にまぶし、普通に吸っているではないか。
スペインではドラッグ(ハッシィ)の売り買いは、もち法的に禁止されているが、
こうした個人の吸引程度では咎められないという、日本からは信じられないお国柄なのだ。
サンセバスチャンのお隣、ザラウッの町なんかもっと狂ってる。
ここでも、ヨーロピアンレッグの一戦が行われ、滞在したことがあるが、
昼間は普通の海辺の町なのだが、夜になると豹変し、
夜が更ければ更けるほどテンションが上がり、眠らない町と化すのだ。
バーに行くと、ハッシィを回し吸いし、床には割れた注射器や針が散乱してる始末、、、
まさにクレージー、世も末だ。
ほんと国境を超えるだけで、これだけカルチャー(?)が違うものなのかと、、、、
そんなこんなで、刺激(?)のある毎日を過ごしたラフィテニアのキャラバン生活から、
今度はイベリア半島大移動の旅に出た。
スペインの北海岸をひたすら、西へ西へと走り、
今度はスペインの西海岸を南下、途中ポルトガルとの国境を超え、
ポルトガルのサーフタウン、エリセイラにまでやってきた。
次のコンテストがこのエリセイラのリベイラビーチで行われるため、
サトシとダイチャンも、スペインから飛行機でポルトガル入りしてくることになっていた。
ここでは、皆で一軒家を借りる手はずになっていて、
先に着いた俺達が段取り、サトシらの到着を待った。
今の様に携帯など無い時代だったので、待ち合わせも適当、アバウトだった。
いつもの様に海から戻って来ると、家の前に板を積んだ車が横づけされてあった。
あっ、サトシ達だ~~~と、、、
しかし、彼らが到着して、ほんの少し車から離れた隙に、
手前に積んであったサトシのボードバッグだけ盗まれてしまったのだ。
全ボード、ウエットスーツ、着替え等が入っていたため、
サトシはすっかり気落ちし、帰国するという、、、
慰めても、本人の意志は変わらず、翌日サトシはダイチャンを俺達に託して、日本に帰ってしまった。
ポルガルでは前年に引き続き、ホノルアベイの様なコショースで波に当たり、
コンテストも無事終了し、トクラさん、ダイチャンの順で、リスボンから皆帰国していった。
残った俺とヒデは、二人きりの旅に戻り、
ポルトガルからジブラルタル海峡をフェリーで渡り、
北アフリカのモロッコに入国、再び走りまくり、
アガディールのちょい手前の村、タラズウにある、
ノースアフリカのジェフリーズと言われる、アンカーポイントを目指した。
モロッコでのことは、また次回ゆっくりと書きたいと思うが、
まあ、とにかく、ここまで、It,s a long way。
帰りは、もっと最短距離にしようと、モロッコから今度はスペインに入り、
海沿いを走らず、イベリア半島の中を突っ切って、首都マドリッドをスルーし、
そこから北海岸に出て、ビアリッツに戻るルートを取った。
もう、二人して、交代で寝ずのロ~~~ングドライブだった。
なんか、旅って、帰ろうモードになると、もう、何が何でもそこまで早く帰ろうってなるよね?
そんな勢いで、とにかく俺達は、何故か、
あのラフィテニアのキャラバンパークに辿り着きたくて、走って走って走りまくった。
スペインのボーダーを超え、フランスに戻り、
ラフィテニアのキャラバンにチェックインした時は、
なんだか家に帰ってきた様な気分になったくらいだ。
旅の疲れ、モロッコでの緊張が解けたからなのか、
パートナーのヒデが、下腹部の激痛を訴えた。
フランスの設備のいい病院で見てもらい、2~3日療養してると回復し、
やがて帰国日も近づいてきた。
また、あの気が遠くなるような、南回りのトランジットフライトを思うと、げっそりするが、
もう、ここまでの旅自体が、It,s a long way そのもの。
もう、何が起きても、驚かないし、何でも楽しむ事ができるよ、、、そんな気分だった。
ラフィテニアで、特別な波に巡り会えた訳ではないが、
ふとこのスライドを見つけた時、鮮やかにあの時の旅が甦ってきた、、、
そんな一枚のショットもまた、宝物の一つなんだ、、、
@ Peniche Portugal
@ Ericeira Portugal
今宵はそんな昔の旅の話で、トクラさんと盛り上がりドリンクオン〜(笑)
http://www.worldsurfleague.com/events/2018/mqs/2623/vissla-sydney-surf-pro
QS6000・ヴィスラ・シドニーサーフプロ。
今日はウーメンズのラウンドー1&2が行われ、
ラウンドー3に勝ち進んだ日本人は、ハシモトレン、オオムラナオ、マヒナマエダ。
メンズはラウンドー2・ヒートー6まで行われ、
オオハラヒロトはラウンドー3へ勝ち進み、
オオハシカイト、アズチジョーはこのラウンドで敗れ、
この後、ムラカミシュン、カノアイガラシ、アライヒロト、ニシユウジの出番となっている。
Nao Omura
@ Manly Beach