1996年OMツアー設立から8年が経った春先に1通のメールが届いた。
それは前年に西ジャワのチマジャで会ったオージーのフィルからだった。
西スマトラの沖合に極上の波が多数確認されたが、未だ殆ど誰も知らないというのだ。
小さな島が4つ南北に連なっており、島のあちこちでパーフェクトな波が人知れずブレイクしているらしい。
当時、世界のどのメディアにも紹介されていなかった為、その存在はベールに包まれていた。
そこがパダンの沖合にあるメンタワイ諸島であることが間もなく知れ渡り、多くのカメラマンがプロサーファーを伴って殺到したのは言うまでもない。
バラエティ豊かでクオリティの高い波が僅か南北約150kmの間に無数に点在していることからサーフィン界では『20世紀最大の発見』と言われた。
その後、2010年頃まではサーフィン雑誌やムービーなど取材ブ-ムとなり世界中から多くのサーファーが押し寄せた。
メンタワイ第一次ブームである。
フォトグラファーやライターからすれば波を外す心配がないので格好のシューティングステージとなったのである。
人気スポットには多くのサファリボートが結集し、混雑ゆえトラブルまで発生するようになり入場規制ならぬボ-ト係留規制まで行なわれた。
異常とも言える人気を誇ったメンタワイも今は落ち着きを取り戻し、季節やポイントによってはメンバーだけの貸し切りセッションも可能になった。
27年経った今でもメンタワイは多くのサーファ-から愛され、弊社でも「海外ボートトリップ先人気No.1」の座に君臨し続けている。
話しが少々それてしまったが本題へ戻ろう。
私は、さっそくこの情報をサーフィン界のカリスマフォトグラファー”KIN ”こと木本直哉カメラマンに打診したところ、実はKIN ちゃんも全く別のルートからこの噂を耳にしていたらしく即決で取材決行の判断がなされた。
さっそく『サーフィンワ-ルド誌』により精鋭部隊が結成される。
メンバーは茨城から沼尻和則プロ、出頭孝高プロ、宮崎から谷口崇プロ。
サーフィンスタイル、センスの異なる3人が招集され、1996年9月、我々5名は未だ見ぬ地 “メンタワイ”を目指して日本を飛び立った。
翌日の午後パダン空港へ到着すると、この企画の発起人” Phill ”が出迎えてくれた。
港までは小一時間、準備が出来次第、夕方には出航予定だ。
港へ着くとなにやら騒がしい雰囲気で、BGMが流れ、テントが設置されている。
全身に入れ墨を施し派手な民族衣装に包まれた部族らしい集団も見て取れる。
何と我々のメンタワイ諸島来訪を祝うセレモニーが行なわれるという。
メンタワイ諸島最大の島 ”Siberut島” には独特の文化、宗教、言語を持つメンタワイ族という原住民が生活しており、長い間、下界との交流を断っていた。
特に外国人がこの島を訪れるようになったのはつい最近のことのようで、我々がちょうど2,000人目の来訪者にあたりメンバーを代表して私が表彰されたのである。
突然のサプライズにいささか動揺したが心は既にメンタワイ諸島のパーフェクトウェーブへと飛んでいた。
桟橋には50feetとやや小ぶりの帆船『NORJA』が出航の準備を整え、我々の到着を待っていた。
いよいよ出港である。
キャプテンはオージーの Ken、潮焼けしたブロンズのロングヘアーに髭を蓄えた風貌は当時のリアルサーファー像そのものだった。
波乗りもこれまたいけていて深いポジションから何本もディープバレルを駆け抜けていた。とても頼りになるキャプテン&サーフガイドだった。
メンタワイ諸島までは10時間~12時間、夕食を済ませると心地よい揺れと長い移動の疲れから深い眠りについていた。
翌朝、ボートは既に目的地の入り江に到着していたが時たま左右に大きく揺れるのを感じてウネリが高いことを予感した。
デッキに上がると眼前に飛び込んできたのは今まで見たこともない光景であった。少し緑かかった海面にレフトの波がオフショアに煽られ真っ白なスープを形成しながら規則正しくブレイクしていた。
精鋭部隊からは大きな歓声が上がり、我先にピークへパドルアウト。
KINちゃんもディンギーでスタンバイ、メンタワイシューティングの幕はおろされた。
ウネリは2日間続きサイズダウンと共に次のポイントへ移動。
メンタワイには十数カ所の一級サーフポイントが点在し北部から南部まで5つのゾーンに分かれる。
滞在5日目にゾーン2からゾ-ン3へ移動中、北パガイ島の近くまで来た時、海の色が深い青と茶色、ボートを境目に左側と右側で海面が2色にクッキリと分かれた。
不思議な光景であったが前夜に降った大雨で茶色く濁った川の水が流れ込みカレントの影響で作り出された現象のようである。
その後、一艇のサファリボ-トと遭遇、何とハワイから”Brian Bielman”がプロサーファーを伴って視察に訪れていたのである。
我々の2日前にパダン港を出港したと言っていた。彼は、将来を嘱望された新進気鋭のフォトグラファーで既に世界に名を轟かせていた。
後にも先にもこの旅で我々が出会ったサファリボ-トはこの一艇のみである。
そして、私は残念ながら予定があったため、一人Sipora島からロ-カルフェリーにて一足先の帰国となった。
本隊は引き続きメンタワイシューティングクルーズを続投、1週間後に無事帰国した。 旅の後半も夢のような日々を過ごしたのは想像に難くない。
27年目のメンタワイ回顧録。
おわり。
OM tour 代表 丹野準二
※文章の一部に誤った記述があるかもしれませんが27年前の記憶を辿った回顧録ですので何卒ご容赦ください。