2/10発売!サーファーズジャーナル日本版6.6号の目次紹介

cover6.6

2/10発売!サーファーズジャーナル日本版6.6号の目次紹介

<フューチャーストーリー>8
2020年の東京オリンピックではサーフィンが新たな競技種目に加えられることとなったが、はたしてサーフィンというスポーツはオリンピックの場で競技として成立するのだろうか?今回の日本版のオリジナルコンテンツは、辛口の論評で知られる『F+』の編集長、つのだゆきが、サーフィンコンテストとサーフィンのもつ特殊性、文化について論じた。
1

Doing Your Best Isn’t Enough
「サーフィンって、なんだろう?」
スタイルを問わない、10点満点の矛盾。
文:つのだゆき

かれこれ25年近く、WSL(World Surf League)のワールドツアーばかり見てきた。国内プロツアー・フルフォローの時代を加えれば、30年以上になる。人生の半分以上の時間を、サーフィンコンテストを見て記事を書く、あるいはその写真を撮る、という仕事をしてきた。わたしにとってのサーフィンはイコール・コンテストであって、ルールにのっとった競技であり、スポーツである…であるはずだと思っていたし、そう思うことがほとんどだが、近年WSL体制になって、サーフィンが、というよりワールドツアーがどんどんメジャー化をめざし、賞金額を上げ、選手のステータスを上げ、メディアをコントロールし、サーファー同士の、おなじサーフィン業界の仲間的なれ合い要素をどんどん省き、純粋に興行目的のプロスポーツとしての道を歩みはじめると、否定はまったくしないけど、払拭しがたい違和感が付きまとうようになった。サーファーって、そんなご大層なもの? みたいな。

つづいて紹介する特集は、文化評論家でライターのルイス・ハイドは、与える経済の価値について、著書の『The Gift』で、物を無償で貸し借りすることでコミュニティが形成されるという。「商品を売るのではなく、なにかをプレゼントすることでそれに関わる人々のあいだになんらかの関わりが生まれる。あるグループのなかで物が循環すると、繋がりが繋がりをよび、相互の関係が広がっていく」。著者のカイル・デヌッチオは、それをサーファーたちのサーフボードの貸し借りとサーフ・コミュニティに置き換えて、話を展開させる。

2

The Gift
「ギフト」
自ら課した孤独な波との取引、そして一本のシングルフィンが教える現代のサーフカルチャー。
文:カイル・デヌッチオ
そのボードは150ドルだった。ある夜、サンディエゴでいつも波乗りしていたビーチの暗くなった駐車場で、ある男が売っていたものだ。男はトラックの前でぎこちない様子で板を持っていた。たとえば、使ったことのない大きなチェロのようなものを持つ感じだ。どこかで盗んできたのか、フリーマーケットで買ってきたのか。ぼくは訊ねなかったが、板の状態からするとどこかのゴミ箱から拾ってきたものかもしれなかった。それはボロボロで醜(みにく)い5’10”のシングルフィンだった。

1991年にトム・サーベイによって撮影されたトム・カレンのカットバックは世界中のサーファーに衝撃を与えた。そのトム・カレンが乗っていたサーフボードはモーリス・コールがシェープした7’8”ピンテール。予期せぬ幸運から生まれたサーフボード・デザインの裏話をニック・キャロルが解説する。

3

The Reverse Vee Project
「リバースヴィー・プロジェクト」
文:ニック・キャロル
写真:トム・サーベイ
出来事の全貌に後になって気づくことを後知恵(あとぢえ)という。しかし、真実は理解しがたいところに隠れているものだ。1991年後半にモーリス・コールがトム・カレンのためにシェープした7’8”ピンテールは、ふたりのコラボレーションによって起こるべくして起こったようにみえる。だがこのサーフボード・デザインにまつわる出来事には、にわかには信じがたい真実があった。これには「形態は機能に従う」という賢者の言葉があてはまる。その時代を引き剥がしてみよう。まず注目するのはふたりの対照的なキャラクターだ。ベルズビーチ出身の野生的でエネルギッシュなサーファーと、メディア嫌いなサーフィン新王朝カリフォルニアのプリンス。しかも彼らは偶然西フランス南部で活動していた。しかも彼らには究極のハイパフォーマンス・クイバーをコラボレーションで開発するというような目的はなかった。いや、まだなかったが、けっきょくは開発した。

オーストラリアの1960年代のサーフシーンにおいても、まだまだ発掘されていないお宝の写真がたくさんあった。今回、ジョン・ペニングスによる懐かしい写真のかずかずを紹介しよう。
4

Improvisation
Some Minor Windfalls
「ちょっとした棚ぼた」
ジョン・ペニングスの1960年代半ばの記憶。
文:アンドリュー・クロケット
写真:ジョン・ペニングス
2010年、靴の箱に入れられたジョン・ペニングスのアーカイブは、シドニーにある彼の自宅のガレージに保管されていた。ぼくがしつこく頼み込んだおかげで、このアーカイブは、埃を払われデジタルスキャンされることとなり、写真は2015年に『Switch Foot: The Other Side Of Surfing 1960-1976』という書籍として出版された。ジョン・ペニングスが、ミジェット、ナット、マクタビッシュ、ボビー・ブラウン、ボブ・ケナーソンのほか、1960年代のノースシドニーのスタイリストたちを撮影してから50年が経つ。彼が撮影した北ニュー・サウス・ウェールズのだれもいないラインナップも同様に象徴的なものとなり、はるか昔、混雑する前のオーストラリアのサーフィンの記録的価値があった。彼はサーフメディアがまさに夜明けを迎えようとしていたそのときそこにいたのだった。

5
Spirit of the Green Dragon
「グリーンドラゴンの精神」
陶芸家ジョー・スコビーとラ・ホヤに残るアートコロニーの面影。
文:リチャード・ケンヴィン
ラ・ホヤを訪れておきながら、グリーンドラゴン・コロニーを見ずして帰るなんて、もったいないにも程がある。グリーンドラゴンこそはラ・ホヤそのものであり、ラ・ホヤこそグリーンドラゴンそのものなのだから。 -『ザ・サンフランシスコ・クロニクル紙』 1901年
ジャック・オー・ランタン、人形の家、ウグイスの巣、ノアの箱舟、切妻屋根の家。これらは100年以上前にアンナ・ヘルドが建てた木製のバンガローそれぞれに付けられた名前だ。どの名前も、ヘルドの洗練されたヴィクトリア朝時代の精神と、過ぎさりし夢の切なさとを彷彿とさせる。最初のバンガローであるノアの箱舟は、アーヴィング・ギルの設計によるもので、1894年に建てられた。プロスペクト通り沿いの、ゴールドフィッシュ・ポイントを見下ろす丘に並んで建てられたバンガローは、最終的には11棟にまで増えた。ヘルドの家をよく訪れていた、イギリスの女流作家で女性解放運動家のベアトレス・ハーレードンによって「グリーンドラゴン・コロニー」と名付けられたこのバンガロー群は、アーティストや作家に無料で開放された。

6

The Man From Scum Valley
「スカムバレーから来た男」
ボンダイビーチで花開いたアント・コリガンの半生。
文:ピーター・マグワイア
2009年、仕事でシドニーを訪れていた私は、ボンダイビーチへと足をのばし、古き友人のアント・コリガンを訪ねた。大人の自覚を求められ、プレッシャーがのしかかる前、なにも気にせず自由気ままにサーフィンを楽しめた1984年のニュー・サウス・ウェールズ(NSW)北部での日々は、今思えばとてもマジカルで至福のときだった。現在このホームタウンを牛耳る“ボンダイ王子”とやらよりも、アント・コリガンという男はよほど典型的な、それこそネッド・ケリーを彷彿とさせる不良オージーだった。デレク・ハインドの著書にこうある。「彼はコング(ギャリー・エルカートン)登場の以前からコングそのものだった。兄の台頭をきっかけに、彼ほどボンダイビーチを象徴する存在になった者はほかにいない。なぜオージーサーファーが、何世代にもわたって世界で活躍しつづけられるのか、その理由の本質がコリガン兄弟に象徴されていたと思う」

7

Primo
「プリモ(プリモ:孤高の存在という意味)」
ハワイ時代のブッチ・ヴァン・アーツダレン
文:ダグラス・キャバノー

ハワイへ旅立つために何年もかけて周到に準備を重ね、せっせと資金を貯めたブッチ・ヴァン・アーツダレンは、現地の映像を穴が開くほど見て、熱心に先達の話に耳を傾け、マンモス級の大波に想像を巡らせてきた。そしていよいよ転機が訪れると、彼はホノルル空港に到着する日時をマイク・ディフェンダファーとパット・カレンに伝え、旅に同行する仲間を探した。計画に飛び乗ってきた友人のジョージ・ラニングとともに航空券を買い求めたブッチは、ウィンダンシーのサーファーだれもが憧れる夢の冒険に向けて荷づくりをはじめた。そしてその夢は、現実となる。

8
Portfolio: Mark Mcinnis
「マーク・マッキニスの世界」

お問い合わせ

ザ・サーファーズジャーナル日本語版 編集部
〒106-0041
東京都港区麻布台1-4-3-10011
TEL:03(5575)2566
FAX:03(5575)2567
URL:http://www.surfersjournal.jp/

最近の記事

関連する記事