6/9 Story of Video Tsunami Calling vol-1

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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いよいよ、DVD 波巡礼

Surf Pilgrimage 2 / To The Ends of The World の完成が近づいてきた。

この作品は約10年前から撮り溜めたフッテージの一挙大公開となる。

世界中の素晴らしい波、そして日本の素晴らしい波を駆け抜けていく

日本人サーファーのパフォーマンスがこれでもかと映し出されている。

試合にはないフリーライドがこの作品のコンセプトでもあるが、

そのルーツを辿れば、今から30年前に自身が制作したビデオ・ツナミコーリングにある。

当時サーフィンワールドのシニアスタッフフォトグラファーとして、

ハワイ、ワールドトリップ、日本と、止まる事なく取材を重ねていた時期(30歳頃)に、

スティールとビデオを同時進行させながら、フッテージを溜め、

自分自身で初めての編集作業もやり、難産の末産み落とした、思い入れの強い作品だった。

高校時代にサーフィンと出会い、

大阪の中之島公会堂や御堂会館へサーフィン映画をよく見に行った。

スーパーセッション、モーニングオブジアース、

ファイブサマーストーリー、メニークラシックモーメンツ、

インサーチオブチューブラースエル、ファンタジー、

フリーライド、ストームライダーズ、

カワイミキオさんが制作したストーンブレイク、

イシイヒデアキさんが制作したアジアンパラダイス等等。

やがてフィルム上映の時代からビデオ時代に入り、

クィックシルバーやビラボンなどのメーカーから、

自社ライダーによるサーフィンビデオが出だし、やがて洪水の様にビデオ作品が氾濫してきた。

そんな中、日本人の手による、日本人サーファーの作品は皆無に等しかった。

サーフィンカメラマンとして20代を駆け抜け、

ずっと夢に描いていた日本人のサーフィン映画を作ろうと、

30代になってようやく大きく踏み出した。

まずはハワイ・ノースショアのビッグウエイブに挑む日本人サーファーにフォーカスしていった。

確か1990年の冬だったと思うが、この時はスティールをほぼ撮らずにビデオに専念した年だった。

キャノンのHI-8で岸撮影、ソニーのHI-8で水中撮影。

ノースに来ていたジャパニーズサーファーのパフォーマンスを片っ端から水陸で撮影していった。

当時の若手には、ウッシー、ナオ、タカ、ヌマ、トッコ、アッチ、ワキタ、タローらが居て、

中堅には、シュウジ、タカオ、サトシ、イマス、コッツ、キヨ、ボーチャンらが居て、

ベテランには、ヒロミチさん、タコさん、コウヘイさん、ヨッちゃんらが居た。

若手編を、NEW BLOOD 、中堅&ベテラン編を、HOT Pepper と言うタイトルにして、

ロッキーやエフカイでのアクション、

ハレイワでのマヌーバー、

バックドア&オフザでの狂気のプルイン、

パイプでの圧巻のチューブライド、

ワイメアでの驚愕のドロップ等、

そして今となっては撮影できなくなってしまった、

モクレアのアーミービーチやカフクのセブンスホールでの、

水中フッテージがまるでパイプの様に見せることができた。

思えばこの年はコナウインドが多く、モクレアやイーストサイドへ行く事が多かったと回想できる。

前年から試験的に撮り始めたビデオだったが、

この時の冬で一気に充分なフッテージを撮影することができたので、

帰国後は試行錯誤しながら、作品完成に向けての準備に入っていった。

当初、サーフィンワールドの磯部編集長は余り乗り気ではなかった様なので、

自分で何もわからないまま制作会社を探して、まずは編集に入っていった。

基本インタビューとかは入れずに、イメージに合った音楽を引き、

そこに映像を乗せていくと言う形をとった。

実はこの音源が厄介で、有名アーティストの曲なんかはバカ高すぎて使えないので、

とにかく安くて雰囲気のある曲を探し出さなきゃならないってワケ。

こうして遅々と音源を揃え、

ビデオデッキが2台並んでいる小部屋に籠って素材のオッケー出しをしていく。

今の様にお家でコンピューターでパチパチってなワケにはいかなく、

ビデオテープをキュルキュル回しながらの作業となり、それが2ヶ月近くにも及んだ、

当時住んでいた小田原から東京に通い、また小田原に帰ってリセットの繰り返しで辛かったが、

徐々に形となっていく事の喜びもあった。

もちろん編集中でも波があれば撮影を優先し、

海外トリップの話があればもちろん行ったりしていたので、

編集にはかなり時間をかけてしまい、完成もいつになるかわからない有様だった。

それでも仮編にこれでもかというくらい多大な時間をかけ、

ようやく本編のスタジオに入ることとなったが、

当然のことながら予算削減のため、本編作業には余り時間をかけられなかった。

シーンとした冷房の効いた本編編集スタジオに入り、二人のオペレーターが前に座り、

観客席の様な感じで、後ろに俺(ディレクター)やアシスタントの女の子達が座り、

いよいよ本編が始まった。

出だしの波のスローモーションが出てきた時は、仮編にはなかった感動があった。

そしてWOWOWOW~と言う音にに合わせて、

オープニングライド・サトシのワイメアビッグドロップが始まった〜

水中を多用していたので、フレームが安定せず、

スローモーションが多かったな〜と今では冷静に評することができる。

オープニング〜若手編〜中堅・ベテラン編〜外人編〜エンディングへ、

遅々と編集作業が続けられ、気がつくと午前から始めた本編ももう夜になっていた。

段々と集中力がなくなり、更には睡魔が襲ってきた。

それでも前にいるオペレーターはパチパチカチカチと機械を操り続けていた。

そんなこんなでウトウトしながらも、編集は続き、翌朝にはついに完成〜〜

実に20時間近く暗く寒い編集室にいたことになる。

ツナミコーリングの名前の由来は、

ハワイで友人のマイクラトロニックとタイトルについて話してあっていた時に、

まず、コーリングと言う言葉が出てきた。

呼び声、と言う様な意味合いだとマイキが教えてくれ。

ビッグウエイブの呼び声、予感、なんてのはどうだと言い、

ビッグウエイブが、外人的に知られる ”ツナミ” と言う日本語に変換された感じで、

”ビッグウエイブ・コーリング”が、”ツナミコーリング”と言うネーミングになった。

2011年・東日本大震災による津波の被害を考えると、

とんでもないネーミングと思われるかもしれないが、

震災が起きる20年前で、

名前の由来は”ビッグウエイブの呼び声”からきている事を理解していただきたい。

そして後に、サザンオールスターズの桑田氏が、このツナミコーリングのビデオを見たことから、

名曲”ツナミ”を作るインスピレーションを得たと、自身のインタビューで答えられていた。

こうして、オイラの猪突猛進なプロジェクトは実を結び、

サーフィンワールド・ビデオマガジンとして、

当時としては破格の7000円で発売されたが、他にこういった作品が無かったので大好評を期した。

確かその年、NSA全日本が静岡で行われた時、SWのスタッフが上映会をしたところ、

選手やサーフィン業界の関係者が多く集まり、大熱狂だったと聞かされ、本当に嬉しかった!!

高校生時代に夢見ていた、憧れていたサーフィン映画を、

自身の手で作り上げた事にスーパーストーク!!

そもそも当初から、ツナミコーリングは3部作として考えていて、

第2部はワールドトリップ編、第3部は日本編として、

ここまでの撮影取材でもフッテージを残してきた。

オイラの処女作・ツナミコーリング(ハワイ編)の大きな一歩によって、

翌年も、ツナミコーリングⅡ(ワールドトリップ編)の制作に入ることができたのだ。

 

 

 

 

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