4/12 Story of The Surf Pilgrim vol-12

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Kazunori Numajiri @ The Beach  Ibaraki

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92791009_697746267652513_6092120065212153856_nKeito Matsuoka & Yoshio Ono @ The Beach  Ibaraki

 

 

 
北関東・茨城県は湘南、千葉に次ぐ日本3大サーフィンエリアのひとつだろう。

寒流が入り海の水は冷たいが、一年を通じて波はコンスタントにあり、

多くのプロサーファー、素晴らしいサーファーを輩出してきた。

古くはテヅカノブユキさんの兄・マサノブさん、サイトウタダツグさん、

オノイサオさん、リュウジの父・イワタさん達によって、

現在のISU(茨城サーフィンユニオン)の前身となる茨城サーフィン連盟を発足させ、

茨城のサーフィンの普及に力を注いでこられた。

そして、茨城レジェンド故テヅカノブユキさん、

シミズカツノリさん、アザハラミキオさん等がプロとなり、

ショウジカツノリさん、オチアイサブロウさん、ヨネカワコウイチさん、イシゲマサアキさん、

ナカザキクニミチさん、スズキマサヒコさん、

イシザキタケシさん、マツモトイワオさん達の時代を経て、

オノセユウイチ、サカモトキヨカツ、1992年JPSAグランドチャンプとなったヌマジリカズノリ、

その下にシュットウヨシタカ、イチムラキヨシ、オオウチケンジ、ニシムラノボル、

フジタシゲル、ミドリカワ達が続き、

オノヨシオ、トビタツヨシ、タカナシナオト、イシザキタカユキ、セキネタテオ、

イワタリュウジ、オオタタツキ、オオタミツキ、イワブチユウタ、

イノウエタツキ、オオモリカナトのヤングジェネレーションへと繋がっていった。

茨城のサーフィンエリアとしては、北から福島との県境に位置する北茨城、高萩、

川尻、日立、東海、阿字ヶ浦、大洗、大貫、鉾田、鹿島、千葉との県境にある波崎と連なっている。

中でも阿字ヶ浦が茨城のサーフィンのメッカと言われ、

北関東最大の海水浴場でもあり、当時多くのサーフショップが阿字ヶ浦に密集していた。

JPSA戦も今の大洗ではなく、毎年この阿字ヶ浦で行われていた。

阿字ヶ浦の凄いところはビーチブレイクながらビッグウエイブをホールドするというところだった。

ある年の台風セッションでは6オーバーあろうかという阿字ヶ浦に遭遇し、

ビーチの目の前にある鶴屋旅館の屋上から撮影させてもらったことがある。

遥か沖からAフレームのライト&レフトが炸裂し、プロ&ローカルの大セッションが展開された。

ゲッティングアウトは右端の堤防を使い、

一番先っぽからセットのタイミングを見計らって飛び込んでいた。

当時まだまだ若手だったヌマ、キヨカツのチャージも素晴らしかったが、

栃木から足繁く茨城に通っていた

アンダーグランドビッグウエーバーの故オノヒデヨシのアプローチが目を引いた。

そんな茨城の中心でもあった阿字ヶ浦だったが、

ひたちなか港拡張工事の為沖に防波堤を入れ出した1990年あたりから

阿字ヶ浦本来のブレイクがなくなり、ひどい時はビーチがなくなりドン深の地形となり、

サーフィンはおろか海水浴場としても破滅していった。

あれだけ賑わった阿字ヶ浦にも人が集まらなくなり、サーフショップも次々と移転していった。

今は海水浴場としては復活し、右端ではサーフィンもできるようになったらしいが、

阿字ヶ浦の全盛期を知るサーファーにとっては最大最悪の悲劇となった。

阿字ヶ浦をホームグランドとしていたキヨは大貫でサーフショップをはじめ、

ヌマは東海寄りのビーチがホームグランドとなっていった。

この頃自分は西湘・小田原に住んでいたので、湘南は元より、千葉、茨城には気軽に出かけていた。

ある年の台風取材でヌマ達と福島のウエストコーストあたりをうろついていた時、

一緒に行動していたシュットウ君が、

自分のスポンサーでもあったホリーウエットの社長・故ノゲさんから連絡があり、

シークレットのビーチがいいよ、と言ってますとのこと。

ヌマ達もあまり行ったことのなかった場所だったが、ノゲさんの待つビーチに行ってみると、

テトラの前でオフザのようなホローブレイクが炸裂していた〜

おまけに遠浅ではなく、岸から近くでパッコーンと唸りを上げている。

初めてのポイント、テトラも目の前にある、

もしかしたらボトムにもテトラが隠れてるかもしれない、、、

おっかなびっくりボーイズはパドルアウトしラインアップした。

そこにダブルアップしたピキピキのセットが来襲、

当時押しも押されぬ日本のトップレフティの一人だったヌマは期待通りゴー4イット!

しかしあまりのバカッ掘れにヘビーパーリング。

大丈夫かな?とヌマの行方を凝視していると、

テトラの目の前で打ち上がり、板は3ピースにへし折れていた〜

怪我はなく逆にヌマは闘志満々で再びパドルバックし、シュットウ、ツジコウジ達と

このハードブレイクでセッションを続けた。

この時のインパクトが強く、その後ヌマは足繁くこのビーチに通い、

俺も茨城イコールこのビーチを狙いに来るようになった。

仙台新港と同じく湾が南向いているので、南うねりには敏感だが、ワイドなブレイクになり、

むしろ北うねりがラップして入ってきた時の方がAフレームで良い波になるという。

風は北東〜北〜北西〜西までオッケーで、サイズはなんと8〜10ftまでホールドするという。

仙台新港がダイナミックと例えるなら、このビーチはシャープなダンパーバレル。

スラブが好きな奴しかやりたいとは思わないだろう。

ここでも数え切れないほどのセッションを撮影してきたが、

一番整ったコンディションだったのが

トップのラインアップショットとヌマのボトムターンショットを撮影した時だ。

底冷えする春の午後、北西のオフショア、北うねりの4〜6〜

そんなビューテホーなコンディションもあったが、

ある時は南うねりの6〜8〜ニアリークローズアウト、

天気も霧がかかってダークグレー

確か当時まだ10代だったマツオカケイトは仙台から電車を乗り継いで茨城まで来、

ヌマに連れられこの荒れ狂ったダンパービーチブレイクにチャージング。

当時から今も変わらぬケイトのイケイケスピリットでハードなプルインを繰り返し、

持参した3本の板をあっという間に折りきってしまった〜

まさに故サクマヨウノスケみたいな奴だなあ、と感心するほどの清々しさだった(ワラ)

その後ケイトもここの波を意識しハントするサーファーに育っていった。

そしてこのビーチを誰よりもやってきていたヌマにして、

2年前の正月の波が一番凄かったという。

カメラマンはいず、記録としては残せなかったが、冬の厳寒の中、

6〜8〜10ftの北うねりで、これ以上ないAフレームが形成されていたという。

誰もが愛した阿字ヶ浦という茨城の宝は失われたが、

チャレンジスピリットを駆り立てるこのザビーチもまた茨城の宝に違いない。

 

 

 

 

 

img307@ Ajigaura  Ibaraki

 

 

 

 

 

 

img266Kazunori Numajiri @ Ajigaura  Ibaraki

 

 

 

 

 

 

 

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