3/29 Story of The Surf Pilgrim vol-2

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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写真集・波巡礼・The Surf Pilgrim のオープニングを飾るこのラインアップショットは、

和歌山県・南紀・串本にあるハルカポイントだ。

本州最南端・潮岬西面の付け根に位置するリーフブレイクだ。

荒々しい紀伊半島には数多くのサーフスポットが点在するが、

荒磯が多く、ハルカの様なサーフィンに適した棚は意外と少ない。

ハルカの歴史は1990年、ホリグチゲンキが初めてパドルアウトした時から始まった。

前年の1989年、後輩のハナサキシンジと和歌山西面にある

ポピュラーなリーフブレイクでサーフした後、

国道42号線を家に向かって走っている時にこのハルカのブレイクを見つけたらしい。

その時はこのインサイドの波ではなく、もっと沖の棚でブレイクする波だったという。

南紀・串本で生まれ育ち、大学時代は大阪で過ごし、

その後サーフィン&シェイプの修行で千葉・鴨川に行き、

1981年からハワイ・ノースショアに通い出し、

今尚サンセットのピークで元気にサーフィンを続けているゲンキ君。

千葉から故郷の和歌山に戻り、南紀をベースにサーフィンライフを送る中、

彼の人生を決定づけるハルカの発見となった。

そして翌1990年8月19日、台風からの南西ウネリが南紀にも届き出した時、

ゲンキ君は足ヒレをガムテープでウエットスーツに巻き、

意を決してたった一人で沖の棚へパドルアウトしていった。

その時はまだバディがいなかったため、亡くなった前妻・チエちゃんと当時8歳のシンペイが

ハルカを一望できるこのラインアップ写真と同じ場所から見守っていたと言う。

その後ヤングガンとして育っていくシンペイにとっても、

ハルカはまさに原点とも言える場所・存在となっていくことになる。

この記念すべきヴァージンアタックでは一本だけ波に乗り無事生還した。

そしてその年の秋にはウネリだけでまだブレイクにまで至ってない

アウトサイドをチェックがてらパドルし、

その帰りにこの写真のインサイドの棚を見つけたらしい。

それからはアウトサイドの棚よりもインサイドの棚を意識する様になり、

翌年1991年にはミナミタカシ、スミスナオ等と共に5回インサイドハルカにアタックしていった。

その頃からゲンキ君はこの自分が見つけ出したポイントに取り憑かれ、

サーフィンもシェープもハルカありきの、追求していくスタイルになっていった。

ハルカのポイント名は1988年に生まれたゲンキ君の長女・晴加(ハルカ)に由来する。

1990年始めてサーフした時は、棚から牡丹餅や〜〜タナボタや〜と言ってたらしいが、

1991年、ミナミ君やスミ君らとセッションする様になった頃から、

ポイントが遥か(ハルカ)沖にあることからと、娘の名前が晴加(ハルカ)ということもあって、

このハルカと言う呼び名が命名された。

ハワイでゲンキ君からワイメアをコンパクトにした様な凄いポイントがあるんや〜

と、1990年に始めて入った時、山の上からチエちゃんが撮った写真を見せてくれた。

とにかく日本とは思えない様なビッグウエーブ・スケールには驚かされた。

そして1994年に始めてハルカで撮影することになり、

このポイントのポテンシャルの高さを水中で実感することができた。

それからは俺にとってもハルカは取材サイクル、ライフワークの一つとなっていった。

年に1〜2度のチャンスしかないが、立ちそうだと思った時は何処からでも駆けつけていった。

ある時は暴風雨・嵐の中、ある時は風も絡まない晴天、

予想に反して波がなかったり、逆にあっという間にクローズアウトになり

手が出せなかったりと、、、

そんな中でも1996年真夏のハルカセッションを忘れることができない。

当時西湘・小田原に住んでいたので、ヒロミチさんとザショップのチョボを誘って南紀へ向かった。

台風は遥か南の海上で勢力は強くゆっくりと西へ進んでいた。

ハルカがブレイクする時は大抵台風が接近しストーミーコンディションになることが多かったが、

この時は真夏のドピーカンで風も無く、普段では有り得ない好コンディションだった。

まだ現役バリバリだったヒロミチさんを招き、

ゲンキ君、スミ君達と歴史的なセッションを展開することができ、

大阪アンダーグランドビッグウエーバー・ミナミタカシ君が

度胆を抜くカバーショットをモノにした。

また2000年に取材した時のハルカではゲンキ君のチューブライディングを撮影することに成功し、

当時のSWのカバーショットとなり、海外でも日本にこんな波があるんだと話題にもなった。

タイトでナローなチャンネルを抜け、遥か沖のブレイクへパドルアウトすると、

そこにはまるでワイメアの様なスティープした神々しいファーストブレイクが、、、

そしてもっと沖にはパドルでは歯が立たないほどの

ダイナミックかつワイルドなアウトサイドブレイクが、、、

本州最南端・南紀・串本に佇むハルカは

自然の猛威・水の牙をもってサーファーに襲いかかってくる。

ハルカのこれまでの30年の歴史は、

サーファーのこれでもかと言うパッションによって作り上げられてきたといえよう。

 

 

 

 

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91078544_602358280347430_7578347056511582208_nGenki Horiguchi @ Outside Haruka  1990

Photos by Chie Horiguchi

 

 

 

 

 

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