5/8 Story of The Surf Pilgrim vol-30

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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@ Mizushima  Cape Ashizuri  Kochi

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足摺岬(あしずりみさき)は、高知県南西部土佐清水市に属し、

太平洋(フィリピン海)に突き出る足摺半島の先端の岬。

足摺宇和海国立公園に指定されている。

北緯32度43分24秒、東経133度1分12秒。

宿毛市に属する沖の島の存在のほか、岬付近にはこれより低緯度にも小島が散在し、

四国本島としても、長碆(ながはえ)地区等の存在から、

実際にはわずかに四国最南端ではないが,

一般には四国最南端の地(岬)として認識されている。

足摺崎の読みは本来「あしずりざき」が正式呼称であったが、

観光地化の進展に伴い論議を経て通称の「あしずりみさき」が正式呼称となった。

 

 

足摺半島南東端に位置、黒潮の打ち寄せる断崖は約80mの高さをもつ。

周囲はツバキ・ウバメガシ・ビロウ等の亜熱帯植物が密生。

沖合いはカツオの好漁場。

一方で台風銀座でもあり、しばしば暴風に見舞われる。

足摺半島西岸、中浜の漁師であり、

幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎(中浜万次郎)の銅像が立つ。

万次郎の遺品や当時の捕鯨・航海についての資料を展示した「ジョン万ハウス」も、

岬から500m西に設置されていたが、建物の老朽化により、

2006年(平成18年)4月、あしずり港内にある「海の駅」2階へ、

同ハウスにあった観光案内所は足摺岬園地に移転した。

その後ジョン万ハウスは、2010年(平成22年)1月に

NHK大河ドラマ龍馬伝のパビリオン「くろしお社中」としてリニューアルオープンした。

NHK大河ドラマ龍馬伝の放送終了に伴い、

翌年4月からは「ジョン万次郎資料館」として再度リニューアルオープンし、

ジョン万次郎の情報発信基地となっている。

各所からは日の出、日の入りが一望できる。明るく温暖な南向きの岬である

(フリー百科事典・Wikipedia より)

 

 

高知県の南西端に位置する足摺岬。

その足摺岬の付け根に位置する土佐清水の街から西向きに南海岸線を走ると、

日本屈指のビッグウエイブスポット・水島がある。

落窪海岸の化石漣痕の一つとして、

岸から500m程の沖合いに突出した三角の岩が聳えている。

その水島を覆うような瀬に、30ftでもクローズアウトしないと言われる、

スケールの大きなビッグウエイブスポットが水島だ。

 

このポイントのファウンダーは、

四万十の漁師・オクモトジュンジさん(1958年生まれ・現61歳)。

18歳でサーフィンを覚え、20歳で漁師になり、

26歳の時に初めてハワイ・ノースショアを経験した、

アンダーグランドビッグウエーバーだ。

そのジュンジさんが20代前半の頃、丘からこのポイントを見つけたという。

つまり1980年あたりのことだ。

 

一方、水島のパイオニアである

クッシャン事クシモトヨシヒコさん(1957年・現62歳)は、

東京で生まれ、小、中、高校時代は大阪の梅田で育ち、

丁度大阪で万博が催された1970年、13歳の時初めてサーフィンを覚えたという。

当時は梅田のとっぽいメンズブティックで働く

兄ちゃん等に連れていってもらっていたという。

高校は同志社香里園で、先輩にはアオヤマさんも居て、

そのアオ爺にもサーフィンに連れていってもらったこともあった。

そして、1975年・18歳の時四国に移住し、

当時生見でサーフロッジ・ペリカンを経営していた

イチラクさんの元で半年近く過ごしたという。

同時期にペリカンに居たツクチャンや、

徳島のウジケさん達とサーフバディになり、

やがて、湘南から徳島に戻ったタダさんがファンタジーサーフを立ち上げ、

タダさんのファクトリーでサンディングマンとして働くようになった。

その後、20歳の時から海部の辺りに住むようになり、

21歳の時には、大阪のウエイブのカジさんが、甲浦で立ち上げた

ファイアーレーンサーフボードでバフとして働き、

23歳から自身のブランド・クシモトサーフボードをスタートさせ、

シェープから全ての工程を一人でやるようになったと言う。

日本でケオニダウニングをケアした事がきっかけで、

25歳からハワイに通いだし、

父のジョージダウニングとも親交を深め、

サンセットのジョンオレンドを紹介してもらい、

サンセットビーチに滞在し、オレンドのファクトリーで板作りも行っていった。

28歳の時にクシモトサーフボードから、気サーフボードにブランド名を変え、

29歳から30年近く、ハナレイの虜となり、毎冬カウアイ島に通い続けていた。

最近は、ライダー(ヤマモトヒロナリ)がジョーズを攻め出してきたため、

マウイに滞在するようになってきたらしい。

 

そんな流れの中で1984年の冬、

クシモトさんとジュンジさんがサンセットで出会うことになる。

お互いがビッグウエイブに燃え、意気投合すると、

かつてジュンジさんが見つけた水島へのチャレンジが始まった。

しかし実際パドルアウトするまでには数年かかり、

1990年に、大阪のクニさん、ヤンさん、クシモトさんの3人が

初めて水島のピークを目指した。

が、全く手が出ず、乗れず、その日は這々の態で打ちのめされたと言う。

それからは命に関わる事だと悟り、ジュンジさんの天馬船を、

シーズン中は水島に一番近い松崎漁港に停泊させ、

ビッグウエイブセッションのアシストとして使っていたと言う。

今でこそ水島がブレイクすると、多くの水島メンバーが集まるようになったが、

当時は、クシモトさん、ジュンジさん、ニシさん、

フナザキさん、コタカさんといった5人くらいだった。

で、実際キッチリ波に乗れたのは、更に3年後の1993年からだったらしい。

波が手強いのもあるが、コンディションが決まるのが年に一度あるかないか、

一度も決まらなかった年もあったので、

数少ないチャンスは必ずパドルアウトしていったと言う。

1995年にクシモトさんがハワイでトウインを覚え、

ケンブラッドショーの手ほどきを受け、

シュレッドやトウボードを作って持ち帰り、

トウインであの波を乗ろうと試み、

徳島や、宮崎、もちろん水島などでテストを行っていったが、

ビッグウエイブのあのスリリングなテイクオフや、

自力で乗った感がないことから、

面白みがなくなり、やがてトウインをやらなくなり、

あくまで自力パドルによる水島アタックとなっていった。

以来、サーファーは岸からパドルアウト、

万が一に備えてのジェットまたはゾディアックアシスト、

と、皆が一丸となって、

ある時は手が出せないくらいの大波になったり、

ある時は全くの空振りに終わったりしながらも

今日までのビッグウエイブセッションが展開されていった。

 

写真集・波巡礼に使われた4点の写真は、

2018年9月3日・台風21号(チェービー)の時に撮影されたもので、

過去様々な水島を経験してきたクシモトさんに言わせれば、中の小サイズ。

ただ天気が良く、風も絡まず、水島としては珍しく好コンディションだった。

なのでこれらのショットは、ゾディアックから撮影する事が出来たほど、

海全体が荒れてなかったと言う事だ。

ゾディアックを運転してくれた人も、

ジュンジさんの後輩で、四万十の漁師だった。

ボウルの外でも内でもなく、抜群の位置をキープしてくれたおかげで、

こんな素晴らしい写真を残す事が出来たのだ。

 

 

以下は、当時の波伝ブログでの記事です。

 

 

 

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スーパー台風21号・チェービーからのビッグスエルを狙って、

昨日のうちに高知県西端・足摺エリアにやってきた。

昨日はうっすらビーチブレイクが反応してきた程度だったが、

今朝はもうしっかりとしたタイフーンスエルが狙いのリーフにヒットしてきていた。

まだこのリーフにしてはやっとブレイクする

(それでも8〜10ftはある)くらいだったが、

昨日の秋雨前線が去り天気は上々、風も緩めの北風・オフショアと好コンディション。

小潮だが昼に向かって上げてくるので、このままサイズアップしてくるだろうと、

午前7時頃からジェットスキーやゴムボートの段取りに入り、

午前8時過ぎからサーファーは次々とパドルアウトして行った〜

前半まったりしたコンディションだったが、午前10時頃からスイッチが入り、

12〜15ftプラスのどセットが来襲するようになってきた〜〜

セッションは正午過ぎまで続けられたが、風が強まり面がバタバタしてきたので、

一旦撤退し、ランチの後再び海に戻ったが、さっきの勢いがなくなり、

天気も一転、曇り〜雨となり、風もサイドに降ってしまったので、

午前のビューティフルコンディションでのワンセッションとなった。

このポイントのパイオニアでもあるクシモトさんにすれば、

まだまだ本領発揮には及ばず中の小サイズだったが、

稀に見るクリーンなコンディションで乗りやすく、

いつものフィアーな感じではないセッションだったと振り返ってくれた。

クシモトさんとこのポイントとの出会いは約30年前だと言う。

ハワイのサンセットで知り合った四万十のフィッシャーマン・ビッグウエーバー、

オクモトジュンジさんが車を運転中この瀬を見つけたと言う。

しかし実際そのリーフでサーフィンするまでには5年くらいの時間を要したと言う。

丁度世界もビッグウエイブに目が向けられ、

ジョーズやトドスサントス、マーヴェリックス、

果てはコルテスバンクスなどが注目を浴び、

日本でもゲンキ君が南紀・ハルカを発掘し、

タコさんが千葉・ショットガンに挑み出した頃だった。

そしていよいよ沖縄にでかい台風が居座り、この足摺のポイントが覚醒し出し、

当時クシモトさんのサーフバディでもあったクニさん達とパドルアウトして行った。

しかし予想以上のビッグウエイブ、ワイルドオーシャンにやられ、

ファーストアタックはテイクオフどころか這々の態で岸に上がれたと言う。

それからは何かあってもいいように、漁師のジュンジさんの船を出したり、

やがてダブのトクラさんがジェットスキーを提供してくれたりしながら、

ようやく初めてのアタックから3年後にテイクオフすることができたらしい。

それからは年に1度あるかないかのチャンス・タイミングを見計らって、

足繁くこの足摺に通い詰めてきたと言う。

あるときは30〜40〜50ftとでかすぎで入れず、

あるときは爆風に泣かされ、

あるときは想いを他、波が立たなかったりと色々あったが、

思い出に残る数々のザデイにも巡り合ってきた。

30代から始まり、40代、50代と、

板も体も試行錯誤しながら62歳になったと言う。

2013年にフジムラアツシとヤマモトヒロナリが、

ハワイのジョーズを初めてアタックし、

その流れで2014年にその二人が、

この足摺のビッグウエイブをも初めてアタックした。

アツシはハワイ在住だがヒロナリは宮崎在住なので、

その後は九州から足繁く四国・足摺に通い出し、

今や次世代を牽引する立場ともなってきた。

スリーディケイドに渡って情熱を注いできたクシモトさんにとって、

やはり次世代のサーファーが、

もっともっと凄い波に乗ってくれることを切に願っている。

北緯20〜25度、

沖縄あたりにある大きな台風からの南西スエルがベストと言い切る、

日本屈指のビッグウエイブスポット・足摺のチェービーセッションをご覧あれ〜〜

(波伝ブログより)

 

 

 

 

そして、昨年・2019年10月10日の台風19号・ハギビスでは、

佐賀のヤングガン・ニシムラショウマが、初めての水島アタックにも関わらず、

日本のビッグウエイブ史に残る、驚愕のドロップをメイクし、

それを高知在住のカメラマン・オクラタカトシさんが、

ジュンジさんの運転するジェットスキーから見事に捉え、

歴史的なビッグウエイブショットが生み出されたのだ。

 

 

 

以下、波伝ブログからです。

 

 

 

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Photo by Okura Film / Takatoshi Okura

 

 

午前の河口での撮影を終え、いよいよ本格的にサイズアップしだして来たので、

四国南西端に位置する足摺岬へと車を走らせた。

ちょうどその頃午前中はまだ小さかった足摺だったが、

正午を境に15プラスのセットが入りだしてきたと言う。

ここからだと予測していた

足摺のパイオニアサーファーであるクシモトヨシヒコさんは、

佐賀出身のビッグウエーバー・ニシムラエイジさんの17歳になる息子・ショウマと

神々しいビッグピークへとパドルアウトしていった。

午前のベイビー足摺とは打って変わり、

大型台風19号からの太いうねりが確実に脈打ちだしてきた。

ベストの南西うねりのディレクションではなかったが、風は緩く天気も良好で、

ストーミーになるのが早い足摺としては好コンディションと言える1日だった。

ラインアップに着くと、ここが初めてのショウマにクシモトさんはアドバイスを施し、

やがて何本かのビッグセットをスルーした。

そしていよいよこの日一番とも言えるボムセットが入ると、

ショウマは意を決してパドルアウト。

テイクオフが早くうねりでスタンダップするや

豪快な20ftフェイスを駆け下りていった〜

すると左右にピークが出来、

ショウマはまさに巨大なリップに挟まれることになった。

あまりの掘れ度に突き刺さりそうになりながらも見事持ちこたえ、

一気にボトムまでメイク、左右から押し寄せるスープにも耐え、

写真にはないがジャイアントホワイトウォーターから突き出てきたと言う。

その一部始終をローカルフィッシャーマンでありビッグウエーバーでもある、

オクモトジュンジさんが運転するジェットスキーの後ろに乗っていた、

東京映画社に勤めるフォトグラファー・ビデオグラファーでもある

オオクラタカトシ君が、素晴らしいアングルでシークエンスとして撮影した。

また岸からはクシモトさんの奥様・アイちゃんが

600ミリレンズで切り撮ってくれていた。

自分が現場に到着したのはその10分後だったので、

このショウマの乗ったレジェンダリーライドに間に合わず、

写真を収めることができなかったと言う訳。

なので今回はオオクラ君とアイちゃんの写真をお借りして、

驚愕の足摺ビッグウエイブセッションの模様をお届けいたします〜〜

(波伝ブログより)

 

 

 

 

 

日本中のビッグウエイブを撮影してきた自分だが、

この足摺・水島のスケールは他の比じゃない。

波に乗るというより、海に乗る、

と言った言い方が合ってるような気がする。

大海原を渡ってきた、台風のウネリが、水島の瀬に引き寄せられ、

遥か彼方から神々しく砕け散っていく。

自然のロウパワーが、神がかった立ち上がりを見せ、

無情にもサーファーを飲み込んでいく。

深く息を吸って、深く潜り、上下がわからなくなるほど揉まれ、

息が苦しくなり、ようやく水面に上がって空気を吸うと、

生まれ変わったかのように、生きてて良かった、とストーク!!

そして再びピークへパドルバック、太いウネリが来る、

意を決して山のような波にテイクオフ!!

これこそがビッグウエイブにおけるパドルサーフィンの原点と言えよう。

 

 

 

 

 

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