R.I.P. Toyokazu Miyagi a.k.a. Kazubo

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

img064

Kazubo with Sunabe Crew @ Sunabe Okinawa circa mid 90′s

 

4月5日、ハワイから帰国した翌朝、

沖縄のカズ坊こと宮城豊和氏のあまりにも突然の訃報が届いた、、、

 

 

 

IMG_8615 2

 

 

IMG_8910 2

 

 

IMG_4453 2

 

 

 

IMG_0758

 

 

 

IMG_0756

 

 

 

IMG_0757

 

 

 

IMG_0759

 

 

 

 

1988年、当時29歳だったオイラはロックダンス社のハイエースをひと夏借り、

湘南から四国、台風後の四国から九州、そして鹿児島からフェリーに車を載せて奄美大島に渡った。

奄美で狙っていたシークレットのレフトハンダーを当てる迄は内地には戻らない、

という覚悟をしての三度目の島入りだった。

着いた当初は車の中で寝泊まりしていたが、テビロにたむろしていたローカルキッズと仲良くなり、

彼等の紹介で地元の家の離れを安くで借りさせてもらうことになり、

おかげですっかり奄美での生活基盤ができ、台風のスエルが入りそうになると、

プロを呼んではセッションを重ねていた。

テビロに集まる高校生の中には、現在奄美の波情報を配信している、

グリーングッドマンことミドリ君もいて、

放課後になるとブッシュに隠していたボロボロのサーフボードを、皆でシェアしながら波と戯れ、

当時滅多に見ることのないプロ達と愉快な時間を過ごしていた。

しかし、タカオ(クガ)とタカ(フクチ)が来た時はテビロ三昧で終わり、

ナオ(オガワ)とナオト(スズキ)が来た時もサイズが上がり切らずグスク止まりだった。

四国から同行してくれたヨシジ(コウノ)も時間切れ、金子切れのため内地に帰って行った、、、

一人奄美に残った俺は無性に寂しくなり、内地に戻ろうかとまで考えたが、

軽~くリフレッシュするつもりで、車、荷物は奄美に置き、

更にディープサウス、沖縄へ単身フライトした。

これが、オイラの初の沖縄旅行だった。

この奄美トリップで知り合ったオキナワンのカーツが空港まで迎えに来てくれ、

カーツの誘いによってカズボウと知り合い、イチャリバチョーのスピリットで、

同年、カズ坊が砂辺にオープンした”ハードリーフ”の奥にあった

四畳半の部屋に寝泊まりさせてもらい、

日中は満潮時になると海へ、夜は毎晩酒酒酒でもみくちゃにされ、

内地では経験したことのないアイランドライフで瞬く間に一週間が過ぎた。

その間、台風が直撃したりしながらも、

島のどこかでサーフィンができるというポテンシャルを知ったオイラは、

オキナワンマジックに魅了され、次ぎのターゲットは沖縄じゃ~~と心に誓った。

 

 

 

 

img186@ Green Pole  Okinawa

 

 

 

1988年、奄美から単身沖縄に渡った俺はバリで知り合ったサトルやチャビー、ミツグ等と再会し、

沖縄レジェンドのイサオさんやカズ坊ちゃん達と出会い、沖縄への第一歩を踏み出した。

翌1989年、初の沖縄取材にはイマス、ボーチャン(ホンジョウ)、アキラ(シンドウ)、

コッツ(コウツサ)等が参加し、

当時湘南に出て行っていた地元沖縄のプロ・リッキー(ヒガ)も取材に加わってくれた。

滞在が長引きそうなので、当時砂辺にリキットサーフショップがあったアパートの3階に住む、

ナイチャー移住組のチエちゃん&サナエちゃんの部屋の半分を提供してもらった。

毎日の集合場所は1階のリキットで、潮が上げて来ると誰かれが集まりだし賑やかになり、

車に分乗し海に向かい、潮が干くとまるで何事もなかったかの様に静まり返る、

このオキナワンスタイルのギャップにまず驚かされた、、、

そして帰って来た部屋はクーラーがかけっぱなしでキンキンに冷えている。

内地じゃ考えられないが、一度消すと冷える迄に相当時間がかかるので、

どこの家もそんなだという。

物価は安く、住んでたアパートの下にあった”なじみ食堂”では、

400円の定食でも食い切れない程の量だったり、ソバも200円で大盛り以上だったりと、

とにかく安くて腹一杯食えるというのが沖縄の特徴だった。

来沖してからは東面に波が続き、連日ゴッドアイランドに通い続けた。

本島南東部知念村に住む、島への郵便配達から緊急時の搬送まで請け負っている、

大城さんのポンポン船で毎日その島へ運んでもらった。

島の港に着くとすぐ目の前に長い堤防があり、その向こうにリーフが広がり、

長いレフティが左から右へ規則正しくブレイクしていってる。

水のクリア度は半端なく、港の中も外もコーラルリーフが透けて見える程だ。

沖縄のどこのポイントもそうだが、特に太平洋側はリーフが浅く、

ほんと潮がのってる時でしかサーフできないので、

ゴッドアイランドでは満潮を挟んでの2時間とされ、

その時間帯目掛けて行き、ササ~っとサーフしササ~っと帰るって訳。

でなきゃティーダ(太陽)カンカンと、コンクリートの堤防に挟まれ、

トーストになっちゃうくらいの熱さにやられてしまう。

そんな中 日一日とサイズアップして来るゴッドアイランドのレフト、、、

確実にタイフーンスエルが入り出して来た。

本島からゴッドアイランドに行く途中何カ所かアウターリーフがあり、

そこにも白波が見えだして来た。

ゴッドアイランドに一番近いアウターリーフ(つまり本島からは一番遠いリーフ)の、

ライトの切れ端には緑色の船舶標識がたっていた。

そこのリーフはいつもゴッドアイランドより2倍近くのサイズがあり、

そのブレイクはまるでタヒチかフィジーの様だった。

ゴッドアイランドからパドルで行けない距離ではないが、

行く迄の深いチャンネルを大型船舶が行き来しているのと、

もし板を流せば帰って来れなくなるというリスクもあり、まだ誰もやったことがなかった。

とうとう、ゴッドアイランドのレフトがマックスオーバーとなり、

例のグリーンポールのアウターリーフには6~8~プラスのビッグスエルが押し寄せ始めていた。

俺はどうしてもあのグリーンポールでセッションしてみたくて、

船頭の大城さんに連れて行って欲しいと頼んでみた。

真面目で意志の固そうな大城さんだが、この日までの俺等の熱意が伝わったのか、

予想外に承諾してくれた。

その頃、サトルは米軍基地の中のレスキュー隊員で、

丸一日勤務、丸一日休みというローテーションで仕事/サーフィンをしていた。

丁度タイミング良く翌日は勤務明けで、朝から動けるとのことでいよいよ明日のザデイに備えた。

今の様に、タヒチやフィジーにも行ったことがなく、

ましてやアウターリーフなんて経験したこともなかったが、

やろう、やってみよう、やっちゃえ〜というパッションだけは凄いものがあった。

その日は夕方の満潮時を狙い、昼頃から動きだし、いつもの港に各々が集まり、

いつもより長めのボードを大城さんの船に積み込み、いざ出陣となった、、、

グリーンポールに近づくとサーフィン映画に出て来る様なビッグウェイブが、

ポールに向かってけたたましくブレイクしてきた。

どう見てもライトはトゥーシャロー、行けないねってことなり、

今度はレフト側から見ようとピークの沖を回ってもらった。

しかしライトの様なチャンネルがなく、船はレフトのショルダーの沖にまでしか入れず、

セーフティゾーンがどこなのか正直わからなかった。

それでも波の裏側から見る限りだと、一応綺麗にブレイクしているようだけど、、、???

潮がある内、満ち込んでくる内に、やろうぜ!ということになり、

皆、前人未到のこのアウターリーフのレフトへ恐る恐るパドルアウトしていった。

船頭の大城さんには沖で待ってもらい、いざ板をなくした場合は、

とにかく泳いでアウトに出て、船に戻れということにした。

次々と海に飛び込むサーファーを見て、大城さんは本当に心配そうだった。

最後に俺がカメラと共に海へ飛び込み、様子見ながらショルダーに近づいて行った。

一応6フィートくらいなら切れ目があるものの、もっとでかいセットがくれば、

今居る位置だと喰らうかな~という不安はあった。

とにかくリーシュが切れないこと、ラグーンの中に打ち上がらない様にサバイブしなければ、、、

一方サーファーはピークのダブルアップに翻弄され、

ミドルの4~5フィートの波はファーストリーフで割れ普通のブレイクだが、

6フィートを超えると棚持ちせず、ダブルアップとなって押し寄せ、

ファーストリーフで一気にティックなリップが飛び出す、

沖縄独特のスラブというよりガタ~~ンブレイクとなった。

サトルは体でそういう波に慣れているのかスムースに引っ掛け、

絶妙なテイクオフを披露してみせた。

しかしバレルになる波はあるんだがその波を選びきれない、

バレルに入るタイミングが掴めないというのが現状だった。

夕方になり北寄りの風が緩い北西に変わり、

西日がまっすぐフェイスに当たりだし、エクセレントなコンディションになってきた。

気分も上々これでエピックライドがあればな~~~なんて調子こいてたら、

突然8オーバーのフリッキンセットが来襲した!!!

アウトへショルダーへと逃げるもバックりボウルに囲まれ、

全員ノーエキジットでそのドセットを喰らってしまった~~~

俺はややショルダーだったため難を逃れたが、リッキーはブロークボード、

アキラは板を流してしまいインサイドのインパクトゾーンを泳いでいる。

イサオさんは漁師の勘なのか、危険を察知してラグーンに入りアキラのボードを探していた。

セットが止んだ隙を見て二人は沖へ泳ぎ、無事船に戻ることが出来た。

そんなこともあってピークに人が居なくなった時再びセットが入った。

今度はサトルがポジションにいた。

濃紺の分厚い外海の波がアウターリーフに引っかかり、グバ~~~とせり上がって来た。

いつもの神業とも言えるダブルアップテイクオフをメイクし、

ガタンと底がなくなるファーストブレイクを伸びるボトムターンでスルーすると、

俺の目の前でサトルは本日のベストバレルに包まれて行った。

シャープでスクエアではないが、グリーンポールならではの、

厚く、重い、荒々しいバレルを見事メイクしていった~~~

やったぜ~~最高~~~なんて思っていたら、

沖で待機している大城さんの船からサイレンを鳴らす音が聞こえてきた。

どうしたんだろう?と思って、目を凝らして見てみると、

船から上がって来なさいコールが出されていた。

まだもう少しセッションを続けたかったが、

大城さんの尋常じゃない動きに皆、慌てて船に戻った。

やはりさっきのドセットで、リッキーとアキラが板をロストし、

泳いで船に戻って来たことで、大城さんは命の縮まる思いをしたという。

もうこれ以上何かあってはいけない、耐えられない、もう勘弁してくれと、、、

大城さんの気持ち、本業、立場を考えると当然のことで、

俺等も潔く初のアウターセッションを終え帰路についた。

俺は大城さんに心配をかけたことを申し訳なく思い、

運転席で険しい顔をしている大城さんに謝りに行った。

すると大城さんはいつもの口調で

”いや~オジサン、びっくりしちゃったよ~皆あんなでかい波に乗って、よく大丈夫だね~~

海でずっとこの仕事してきたけど、ほんと、今日は驚かされたよ~~

でも、もうこれっきりだよ、もうオジサン、あそこには連れて行かないからね、、、”と。

そして港に着くと、大城さんが、”家に寄って行かんかね~”と言われた。

その時、俺はわからなかったが、大城さんと長い付き合いのイサオさんでさえ、

家にあがったことがなかったという。

港近くの昔ながらの沖縄の家には入ってすぐに大きな居間があり、

その正面にデ~ンと仏壇が構えてある。

ここまでで昔ながらの民家に入ったことがなかったので(砂辺エリアはアメリカンスタイル)、

普通の大城さんの家でさえ間取りが衝撃的だった。

ビールが出され、泡盛が出され、おつまみにゴーヤチャンプルーや刺身も出され、

今日の出来事を皆で語り合い、楽しく、飲んで、食べた。

寡黙で優しいウミンチュの大城さん(先年病で亡くなられた)とは、

その後も、ゴッドアイランドに行く時はいつもお世話になったが、

グリーンポールの話になると、決まって苦笑いするだけだった、、、

この、アウターリーフセッションによって、がっつり沖縄の魅力に取り憑かれた俺は、

以後毎年台風が発生すると沖縄へ飛び、新たなサーフサーチを続けてきた。

その全ての源、原点は、この年のこの出来事にあるのだ。

 

 

1989年から始まった沖縄取材はオイラのライフワークともなり、

オキナワンローカルの協力、理解、サポートによって、

沖縄が世界に誇る素晴らしい波の数々をスコアすることができた。

そんな35年もの間、昼に夜にいつもいつも寄り添ってくれていたのがカズ坊だった。

もっともっと海で、宴で笑い、語り合いたかった、、、

 

カズ坊の葬儀が終わり、カズ坊のお骨が砂辺に戻ってきたら、

不思議なことにさっきまで静まり返っていた砂辺が突然パンピングしだしてきた〜〜〜

まさにカズ坊ちゃん好みのオーバーヘッド砂辺。

いつものメンバーはもちろんパドルアウト〜〜

カズ坊の長男・カズマもパドルアウト!!

美しい砂辺のラインアップ、夕焼け、そしてカズ坊ちゃんに献杯〜〜〜

 

 

 

 

IMG_0729@ Sunabe  2024/4/9

 

 

 

 

IMG_0752

 

 

 

img063

 

カズ坊、ありがとう〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の記事

関連する記事