6/26 Story of The Wonder Wave Land vol-2

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Brock Little @ Waimea Bay  1990/1/21

 

30歳の時に製作した写真集・波ノ園・The Wonder Wave Land のトップを飾るのが

1990年1月21日、歴史的なワイメアベイで行われた3度目のエディでの、

ブロックリトル・30ft・驚愕のワイプアウトショットだ。

 

 

1981年の冬から通いだしたノース詣でも10年が経っていた。

1983年からニコノスではなく、スコットプライスの水中ハウジングを手にしてからは、

サンセット、パイプ、そしてワイメアのビッグデイには、

135mmのレンズを装着しパドルアウトアウトしていった。

前年の82〜83ウインターは稀なビッグシーズンで、

1月にいたっては月の半分以上がワイメアデイズとなり、

サンセット、パイプは延々クローズアウト、ビーチフロントの家や庭は、

連日の大波によって崩れていくほどの大荒れコンディションだった。

まだ水中ギアとしてはニコノスの35mmと80mmしか持っていなかったが、

ビッグデイでは80mmを装着して、パイプ、サンセットへとスイムアウトしていった。

ニコノスは一眼レフではないので、

ファインダーから覗くフレームと、実際撮られた写真の誤差があり、

更に連写(シークエンス)も出来ないので、特にノースの様な場所では限界を感じていた。

まだまだワイメアを意識するほどではなかったが、連日ワイメアがブロークするわ、

住んでいたサンセットのチャーリーウォーカーさん宅には、

ロジャーエリックソンやケンブラッドショー等、

レジェンド・ビッグウエーバーが毎日板を取りに来たり、リペアに持ってきたりで、

自然とワイメアベイを意識するようになり、足も向く様になった。

そんなノース2シーズン目のある日、意を決してニコノス80mmを襷がけにして、

エアマットでパドルアウトを試みた。

しかしあの強烈なショアブレイクに阻まれ、何度も何度も岸に打ち上げられてしまう。

するとライフガードが来て、お前には無理だからやめておけ、と言われてしまった。

当然といえば当然だが、情けなくなって泣きそうになった、、、

しばらくショアブレイクの茂みから沖を眺めていたら、

二人の水中カメラマンが怒涛のスープの中から上がってくるのが見えた。

一人はエアマットに乗っていたサトウデンジロウさん、

もう一人は足ヒレだけのテリーマツモトさんだった。

デンジロウさんは2つのハウジングを持っていたため、エアマットをコントロールしにくそうで、

最後のショアブレイクの所で少し右にずれてしまい、ロックの上に乗りあがってしまった。

それでも両方のハウジングを庇いながら、這々の体で帰還することができた。

一方、もう一人のフォトグ・テリーさんも無事岸に辿り着いた。

砂まみれになったデンジロウさんは、

片方の手にあったハウジングをテリーさんに渡し握手していた。

どうやら怒涛のカレントによって流されたテリーさんを助けるため、

デンジロウさんはテリーさんのカメラを持ってあげ、二人で帰ってくることができた様だった。

再び沖を眺めると25ftのニアリークローズアウトセットが大炸裂していた。

こんな海の中で撮影する、こんなコンディションの中でも人を助ける、、、

俺は、情けないなんて思ってるどころか身震いした。

それから数日後、またまたクラシックワイメアデイがやってきた。

夜明け前から波を見極め、これなら行ける、パドルアウトできると、

当時仲の良かったボディボーダーのダニエルカイミと共に、

初めてのワイメアへパドルアウトしていった。

ショアブレイクを超え、第一デスゾーン、第二デスゾーンを超えるまでは心臓バクバクだったが、

沖のチャンネルにつき、あの壮大なラインアップを目の前にすると、

まるで生まれ変わった様な気持ちにさせられた。

するとデンジロウさんもハウジングを片手に沖へ出てきて、

軽く挨拶した後、しばらく一緒に撮影していた。

そこに朝一番のドセットが来襲し、

当時のワイメアキング・ジェームズジョーンズが乗り込んでいった。

俺は体半分逃げの気持ちで、ニコノスなんで2枚くらいシャッターを切った。

それは自分が今まで水中で撮影した中では一番でかい波だった。

そしてその時デンジロウさんが撮ったジェームズジョーンズのシークエンスが、

数ヶ月後、米サーファーマガジンのカバーショットとなり、

中身のワイメア特集ででも、デンジロウさんの素晴らしいウォーターショットが使われていた。

その中には、フォトグ・テリーマツモトを助けた時に撮影されたと思われる、

エースクールの凄いワイプアウトショットもあった。

日本人カメラマンが、あのワイメアで、世界のサーファーマガジンの表紙を飾るなんて、

本当に凄いと思った。

同じ時そこに居た自分は、あの波をニコノスで2枚しか撮れなかった事も悔しかった。

だから翌冬・1983年からはハウジングをゲットして、

とにかく無我夢中でビッグウエイブの水中撮影に臨んで行った。

そして、1985年からスタートした THe Eddie の3度目となるイベントが、

1990年1月21日、ワイメアで開催された。

波はソリッド20〜25ft、天気はオーバーキャスト、

どんよりとした曇り、風は緩いオフショアだった。

この大会には日本からクガタカオも招待され、

タカオはこれまでにやったことのないワイメアのビッグウエイブに挑む事になった。

タカオが出場することもあって、俺は何が何でも水中で撮影しようと気合い満々だったが、

波はデカイ、ここまでに経験してきたワイメアの中でも一番デカかった。

ディレクションが良かったのか、デカイがクローズせず、

セットもコンスタントに来るベストワイメアだったと言える。

最近の様にジェットアシストがあるわけでもなく、

ジャッジスタンドも簡素なもので、セキュリティも厳しくなかった時代。

なので俺は当日の朝、ランディラリックさんに水中に入りたいと告げ、

ランディさんがコンテストディレクターのジョージダウニングさんに取り次いでくれ、

水中撮影の許可をもらった。

いざショアブレイクまで行ったものの、セットが止まず、

ぶ厚いスープが岸までローリングしてきていた、、、、

 

 

 

105658996_742063849940974_7956916562858253404_nKin @ Waimea  Nov 1989

Photo by Kimiro Kondo

 

 

 

実はこの冬、11月(1989年)初旬ハワイに到着してすぐにワイメアがブレイクし、

来たるべきエディに備えて、いつものようにパドルアウトしていった。

この時のスエルはウエスト寄りで形的にはあまりよくなかったが、

アーリーシーズンとすればデカイワイメアデイだった。

午後から夕方にかけてゆっくり入っていたら、突然遥か沖の方に黒いものが見えた。

なんか嫌な予感がし、左沖へパドルアウトしていった。

もう一つ波を超えると、左沖から黒ずんだドドドセットがチャンネルに向かって進んできた。

やべ〜〜クローズセットじゃ〜〜と焦って、そのまま左沖へ逃げるも、スエルがウエスト過ぎて、

通常のノースピークの方へシフトせず、そのまんまビッグレフトが頭をもたげ、

チャンネル、ワイメアピークに向かって割れてきてしまった〜

左に行くと雪崩の中に入ってしまうし、

右へ行くと通常のポイント・ボウルの中になってしまうので、

一番割れにくい微妙なエリアを模索しながら、

とにかく沖へ沖へとパドルし、広く高く掘れた壁をよじ登っていった。

しかしついに無情にも、その波を超える前に魔物の様なリップがブレイクしてきてしまった〜

流石にドルフィンスルーをするとかの次元ではないので、

ボディボードを捨て出来るだけ深く潜った。

巻き上げられたら息が続かないのか?

リーシュが切れたら、この地獄の釜茹での中泳いで帰らなければならないのか?

正直ワイメアでここまでデカイ波を喰らうのは初めてで、

もう死んじゃうんじゃないかとまで思った、、、

が実際は、潜った後左足につけたリーシュがギューっと伸び、

切れる〜と思いきやポンと力が抜けた様に、

体が波の裏側に出ることができ、ボディボードのリーシュが切れることなく、

ヒラヒラ〜ボッチャン〜と舞い戻ってきたのだ。

また幸いな事にこのフリッキンセットは一本だけで、ベイは一旦唸りを納めたようだったので、

慎重にかつ心は慌ててパドルインして、無事帰っていった。

この年の初めてのワイメアでこの経験があったから、

エディデイの時は、あれ以上の恐怖はないと自分に言い聞かせパドルアウトする事ができた。

ワイメアでのパドルアウトのキーはショアブレイクにある。

あの短いようで長いショアブレイクを越す事が最大のポイントとなる。

ガンを持ったサーファーは船のようにスイスイと進んでいくが、

片手にハウジング、ボディボードに足ヒレと言ったカメラマンはまるで鈍行列車のように遅い。

だからゲティングアウトのタイミングがサーファーと違ってモアシビアなのだ。

沖でセットが割れてる間は、間髪なく分厚いスープが押し寄せ、

そのままショアブレイクも大きくなる。

セットが止み、海が凪いだ時に行くと、必ず次のセットを途中で喰らう事になり、

最も危険なビッグレフトへと持って行かれてしまう。

つまり、ワイメアには見えないルート、ゲッティングアウト&インの方程式が存在するのだ。

砂の溜まり方にもよるが、ショアブレイクは遠いより近い方が出やすい。

実際遠い時はサーファーでさえショアブレイクに手こずり、出れないことさえあるほどだ。

さてこの難関ショアブレイクを超えると、やや左へ流されながら沖へ向かう。

ここで気をつけなければならないのが、

必要以上に左、つまりビッグレフト側に持っていかれないことだ。

もしここで沖にビッグセットが入れば、

超分厚いスープがリフォームした10〜15ftのもろショアブレイクの餌食となってしまう。

かつてこのショアブレイクに叩きつけられたタコさんは、

持ち前の泳力でスイムインして上がってきたが、

その波の衝撃から耳の鼓膜を破ってしまった事があるくらい破壊力は凄まじいのだ。

だからベイの中央・センターラインから左へ行くのは御法度。

もし沖からのスープが止まらなかったら、ショアブレイクを出たばかりのゾーンで、

ひたすらスープを喰らいながらも、そこでキープしている方がいいと思う。

セットが止めば必然的に左沖出しカレントが生じ、

そこで左にだけ行きすぎないように沖へと向かうのだ。

そして右横にワイメアの教会が見えれば、次の危険ゾーンとなる。

15〜20ftくらいなら、そこはすでにセーフティゾーンなのだが、

20ftを超えてくると、この辺りでもクローズアウトしてくるから気は抜けない。

ワイメアのポイント(岬)よりも沖に行き着くと、

ようやくワイメアチャンネル・セーフティゾーンとなるわけだ。

だが、先の話で書いたように、20〜25〜やウエスト寄りになると、

このチャンネルさえも怪しくなり、

30プラスになると、ベイは完全にクローズアウトとなってしまう。

そんな微妙なビッグウエイブ・コンディションでエディは行われるのだ。

さて無事ラインアップに着くと、早速ファーストヒートが入ってきて、

いよいよヒストリック・エディデイがスタートされた。

まずは掘れ掘れのドセットを手に出しにいったのが、ハレイワボーイのキャリーテルキナだった。

ワイメアでのキャリーを見るのは初めてだったが、

勢いに乗ったテイクオフからのダイビングワイプアウトは圧巻だった。

もうこの一発で会場は湧きに湧きまくった。

今のようにデジタルカメラではなかったので、フィルム1ロール・36枚勝負だった。

この海で、一度上がって、フィルムチェンジして、またパドルバックは無理とわかっていた。

だからタカオのヒートまではフィルムを残さなければならなかった。

水中には、クィックシルバー・オフィシャル・ムービー担当のドンキング。

そして、米サーフィングのエース、フォトグ・アーロンチャンが2挺拳銃ならぬ、

2台のハウジングを持参していた。

更にアシスタントにサーファーのアレックスコックスを雇い、自分は撮影に徹し、

アレックスにはパドルで岸まで上がらせ、フィルムを交換して、また沖まで持って来させていた。

つまりアーロンは試合中、4ロールの水中撮影を可能にしたのだ。

1ロールしか撮れない自分は、よほどの波以外は撮らないようにし、

シークエンスで撮る事も控えた。

そんな中、確か2ヒート目だったろうか、、、

ベイを覆い尽くすギャラリーから物凄い歓声が聞こえた。

何が起こったんだろうと沖を見ると、まさに山のようなウネリが突き進んできていた。

11月に経験した右からのウエストスエルではなく、正面から来るノースウエストだった。

これならクローズしないだろうと腹をくくってカメラを構えたが、

予想以上に波は大きく、自分がポジショニングしていたチャンネルさえも大きく膨らみ出した。

波はドンドンとせり上がり、自分もグイグイと吸い上げられていくのがわかった。

この誰も手を出そうとしない驚異的マンモスウエイブに真っ向から挑んでいったのが、

ノースのヤングチャージャー・ブロックリトルだった。

少年時代からビッグウエイブでは別格の才能を放っていたブロックだったが、

いよいよこのエディを機に、ブロックリトルの名を世界に知らしめすこととなった。

ブロックは膨れ上がったピークからテイクオフ、ややトップで止まると、

そのまま15ft近くのフリーフォールを強いられ、

大波の中腹でバランスを失いワイプアウト、

そのままトンズウォーターに飲み込まれていってしまった。

目の当たりにこの驚愕のゴーフォーイットを見てしまい、

俺はアナザーワールドにトリップしてしまった。

ブロックは揉まれてもアドレナリン全開、アンプ状態の笑顔でパドルバックしてきた。

同じヒートにいたサーファー皆から賞賛され、

午後の2ヒート目では前代未聞の20ftバレルをニアリーメイクするなど、

ブロック旋風を巻き起こしたエディとなった。

一方、タカオもエディと言う檜舞台のプレッシャーに負ける事なく、

日本人として初めての招待選手という大役をやってのけた。

セカンドヒートではボムセットに乗り込んだが、

トップから真っ逆さまにワイプアウトしたりと、会場を盛り上がらせた。

自分的にはブロックの30ftワイプアウトのシーンがクライマックスとなり、

なんとかタカオのヒートまでフィルムを繋ぎ、

第2ラウンドが始まる前には精も根も果て(フィルムも体力・気力も)岸に上がり、

アーロンの様に、もっとカメラやフィルムがあればなあ〜とか思いながら、

残りのヒートを眺めていた。

この時のエディの凄さ、素晴らしさは、スエルのピークの移行がドンピシャ朝から夕方まで、

つまり、スエルの高さは落ちず、潮加減によってアッピンダウンし、

何よりもスエルディレクションがWNWから始まり、NW,そしてNNWへと移っていったことから、

午後のセカンドラウンドでは、かつてなかったワイメアチューブ合戦が展開されたことだろう。

ブロックのニアリーメイクバレル、マイケルホーのスタンディングストールチューブ、

トニーモニーツのクレージークローズアウトプルインなど、話題の尽きないイベントとなった。

ブロックはこのエディを機に一気に世界のサーフィン界のスターダムにのし上がり、

試合ではなく、世界中をトリップし、凄い波にチャージしたり、

後にハリウッドでスタントマンをしたり、故郷ハワイでライフガードをしたりしながら、

ブロックらしい生き様を貫き通したが、

2016年2月18日、48歳という若さで、肝臓癌のため他界してしまった。

そして、ブロックの死から一週間後の、

2016年2月25日、歴史的なジャイアントスエルがワイメアにフィルインし、

6年ぶり、9回目となるエディが開催され、マッシブワイメアでジョンジョンが優勝、

日本を代表してワキタタカユキも大健闘した。

そして誰もがこの歴史的なスエルのことを、BROCK SWELL と呼んだ。

ブロックリトルの魂はやはりいつまでもノースに、ワイメアに宿っている。

 

 

 

Brock-Little1Brock Little @ Waimea

 

 

 

 

 

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