4/8 Story of The Surf Pilgrim vol-10

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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伊豆諸島の一つ・新島に初めて訪れたのはオイラが19歳の時、つまり1978年、42年前になる。

4年かけて?高校を卒業し、東京の大学に行くことになり、生まれ育った大阪・親元を離れ、

ワクワクドキドキの東京生活が始まった。

高校1年の時に近所の先輩の影響でサーフィンに出会い、

それからはズッポリとサーフィンにハマっていった高校時代。

波の無い大阪から週末になると伊勢や和歌山、四国、伊良湖、日本海などへ、

先輩の車で連れていってもらったり、列車に乗って行ったりして過ごしていた。

やがて運転免許を取ると、知人の車を貸してもらいオイラの運転で仲間と海へ出かけたりしていた。

だから東京に行ったら、湘南や千葉、伊豆や茨城に行くぞ〜っと勉強そっちのけで張り切っていた。

そして大学に入学して1ヶ月、5月のゴールデンウィークを使って新島へ行こうぜ〜となった。

もちろんジリ貧旅行なので民宿には泊まれず、

キャンプスタイルと言えば格好良いがつまりはテント生活。

夜の竹芝桟橋に行くと何故だか多くの外人サーファーがいて、

どうもサーフィンの世界大会(当時のIPS)が新島で行われる事を知った。

そんな中、突然サーフィン業界にいるような人が、君たち新島に行くの?

ならこの外人さんを新島まで連れていってもらえないか?と頼んできた。

もちろん新島に着くと民宿の人が迎えに来るから、船の中だけよろしくと。

当時19歳、何にでも興味津々だったオレ達はOK、OK、任せて〜とその外人を預かり、

一緒にフェリーに乗り込んだ。

片言英語で会話しながら、

彼はフロリダ出身のスティーブマスフェラーと言うプロサーファーと言う事を知った。

サーフィン雑誌などでは聞いたことの無い名前だったが、

笑顔を絶やさない男前のナイスガイだった。

GW直前と言うこともあり、混雑する2等船室でビールを飲んでワイワイ話して眠りに落ちていった。

新島・黒根港に着くと、民宿宮庄のオバさんがスティーブ君を迎えに来ていた。

無事民宿の人に送り届けミッションコンプリートし、

歩いてキャンプ場に行こうとしたら、民宿のおばちゃんが車に乗って行きなさいと、

軽バンに乗せてくれ、まずはスティーブ君の泊まる民宿宮庄まで連れて行かれた。

で、お腹が空いたでしょう?と朝飯までご馳走してくれた。

何でこんなに良くしてくれるの?と思うくらい新島の人の優しさにびっくりした。

おまけにキャンプ地のある和田浜までにも送ってくれた。

ところがこの和田浜は島の西面、つまり羽伏の真逆、おまけに本村の北の外れで、

サーフィンできるビーチではなく、人里離れ何もなく、歩いて羽伏に行くにも遠すぎた。

それでも当時キャンプ場はここしかなかったので、和田浜にテントを張り、

まずは本村まで歩き、商店で食べ物を買って、また歩いて羽伏に通っていた。

初めてみる羽伏は真っ青の海、真っ白な砂、ここまでの人生で一番輝きを放ったビーチだった。

その眩しいほどの明るさ美しさは、その後何度訪れても色あせることなく感動させてくれた。

波は胸〜肩〜・オフショア・5月の陽気で陸はポカポカ、水はキリッと冷たく、

ボロボロのフルスーツを着て、ボロボロのサーフボードで疲れ果てるまで海と戯れた。

そしてまた本村まで歩き、食べ物ゲットしてキャンプ地の和田浜まで歩いて帰る、、、

二日程してなんかこんな不便な所にキャンプする意味ある?と疑問が、、、

皆(4人)で相談し、やはり目の前に波がある羽伏でキャンプする事にした。

スティーブ君との縁もあり、民宿宮庄にはちょくちょく顔を出し、

行く度にオバちゃんは大丈夫かい?ご飯はちゃんと食べてるのかい?と気遣ってくれ、

カレーライスをご馳走してくれたり、車で羽伏に送ってくれたりしてくれた。

そして羽伏の今で言うヘリ下とメインの中間辺りにテントを張り、

本格的に羽伏ビーチキャンプライフに入っていった。

今のようにフリーの湯の浜露店風呂があるわけでも無いので、

メインにあった冷水シャワーを浴びるか、寒い日は浴びないで潮まみれのまま寝たりしていた。

羽伏エリアには全く商店がなかったので、食べ物は本村まで行かなければならなかったが、

和田浜からの事を思うと楽勝の距離だった。

ただ北東の風が吹くと羽伏はオンショア、テントも吹き飛ばされそうになり、

いきなり寒くなり、波も大チョッピー化、、、、こうなるとどうしようもなくなってくる。

そうこう辛いテント生活を続けていると、友人と友人の彼女はお風呂に入りたいから

今日から民宿に泊まると言い出し、今度はもう一人の友人が風邪気味になり、

民宿宮庄の布団部屋で寝かせてもらう事になったりと色々あったが、

また風が南西のオフショアになると、皆も元気を取り戻しキャンプ生活に戻り、

サーフィン、コンテスト観戦と、初めての新島トリップをスーパーエンジョイしていった。

前置きが長くなってしまったが、オイラがまだカメラマンになる前、志す前の19歳、

イチサーファーとして新島との出会いがあったと言うお話です。

その後サーフィンフォトグラファーとしての道を歩み始め、

数え切れないくらい新島に訪れて撮影取材をしてきたが、

印象深いのは自分が30歳の頃制作していた、ビデオ”ツナミコーリング”の撮影で、

クガタカオ、シンドウアキラ、フルカワイサム、カネカツコウジ、ツジコウジ等とで

新島を舞台にムービーの撮影をした時だ。

淡井の右端岩の横からブレイクしてくるサッキーライトのビーチブレイクから、

羽伏のクリンクリンのクリスタルバレルまでガッツリ映像に収め、

伝説のビデオ ”ツナミコーリング−3・日本編” のオープニングを飾る事となった。

また当時バリバリの若手アップカマーだった、茨城のオノヨシオ、トビタツヨシ、

湘南のカミジョウマサヨシ、千葉のウラヤマテツヤ等

との新島取材も素晴らしい波をスコアし、

当時のSWのカバー&特集を飾り、新島観光協会のポスター&ポストカードにも抜擢された。

とにかく春の新島トリップは年に一度のルーティンとなり欠かせないものとなっていった。

羽伏浦は北から奥磯の玉石ブレイクから始まり、

焼き場、公園前、正面、ヘリ下、堀切のビーチブレイク、

そしてシークレットの玉石ブレイクと連なっていく。

シークレットの先は神ケ森、早島が島の最南端となり、

島の西面・西浦、間々下、黒根港、前浜へと繋がっていく。

そして島の北部の村・若郷には渡浮根港があり、その東面には、

開けた羽伏とは異なった、山、崖に囲まれたエキゾチックな淡井浦が佇んでいる。

小さな湾、コンパクトなビーチながら、開けた羽伏とは異なったタイプのビーチブレイクで、

色も羽伏のクリスタルブルーから、淡井はダークブルーを醸し出し、

同じ新島とは思えない空気、雰囲気、オーラを放っている。

実はこの淡井でも羽伏に負けず劣らない波に遭遇し素晴らしいセッションを展開してきた。

時はデジタル時代に入り、雑誌SURF1stの取材で恒例春の新島へ行くことになった。

オオサワノブユキ、モリテッタ、ゼンケナオブミに加え、

新島出身・千葉在住のカセマサルといったメンバーを編成、

彼らは東京・竹芝桟橋から高速艇に乗り込んだ。

自分は前日大阪から伊豆に入り、翌朝伊豆・下田から新島入りする予定となっていたが、

なんと当日海が荒れ、下田〜新島便が急遽欠航となってしまった。

慌てて東京便に乗るメンバーに連絡すると、あちらは予定通り出航すると言う、、、

多くのプロサーファーを動かし、肝心のカメラマンが行けないのではシャレにならない〜

色々と考え抜いた挙句、東京・調布空港からセスナ機で新島入りするしかないと思い、

伊豆・下田から爆走に次ぐ爆走で東京の内陸部にある調布空港へ向かった。

伊豆半島を抜け、高速を乗り継ぎ、兎にも角にも調布に到着、

車を空港の駐車場に入れすぐさまチェックイン〜

予定よりも早く着き、予約していた便よりも一便早いフライトに乗ることができた。

当然チケット代は船よりも高いが、何よりも荷物の超過料金がやばかったので、

必要最低限の荷物に絞り、残りは車に置いて行くことにした。

それでも有り得ないほどの飛行機代となってしまったが、

今はとにかく行くしかないと言う思いでゴー。

初めての飛行機での新島入りだったのでルートや眼下の景色が興味津々。

天気は悪く、風も強いので小さなセスナ機は離陸してからも大揺れ〜

東京・調布から神奈川県上空を飛び、

相模湾に出ると左に鎌倉〜逗子〜葉山と三浦半島が眼下に見えた。

やがて伊豆大島が見えだすと、あっという間に新島に到着〜

島は雨に煙り滑走路もよく見えなかったが、無事着陸〜

予報より天候の悪化がひどく、結果この便が最後で、

この後2日間飛行機も船も欠航となったので、

ぎりぎりすれすれでの新島入りとなった。

空港には先に高速艇で新島入りしていたボーイズが迎えに来てくれ、

自分達も条件付きの出航だったので心配しましたが、

キンちゃんこそ本当に来れるのかなと不安でしたが来れてよかったです、と一同ホッとした。

この時の取材では予算削減のため民宿に泊まらず、カセマサル君の実家に泊まらせてもらった。

本村の北寄りにある警察署の向かいで、

この頃の常宿になっていた民宿富八も歩いてすぐのところだった。

到着当日は雨嵐、北東のドオンショアで波もサイズアップしてきていたのでノーサーフ。

皆で潮温泉入って、明日からのセッションに備えた。

翌日、雨は上がり、オンショアも緩んできたが波は6ft近くあり、超ハードなコンディション。

皆はずっとヘリ下の方まで歩いて行きゲッティングアウトを試みるが、

あっという間に左へ流され、カメラをセットしている正面を通り過ぎてもアウトに出れず、

またやり直しのため1キロ近く歩いては、タイミングを見計らってパドルアウトしていった。

沖に辿り着いてもドセットには手が出ず、ミディアムの掘れた波にテイクオフすると底掘れし、

あえなくパーリング、板も真っ二つと散々な目に遭った。

これこそが新島・羽伏の真髄・真骨頂といえよう。

ハードなゲッティングアウト、メイクできない悔しさ、

それでも羽伏の波はこれでもかと唸りを上げてくる。

こんな時はもしや?と思い、今度は淡井をチェケラ〜

こちらもやはりサイズもありハードブレイクだが、

切れた波、間隔があるのでやってみようとなった。

もちろん誰も入っていない。

案の定羽伏よりもゲティングアウトがしやすく、選んで乗ればドチューブもあった。

やがて低気圧が抜け切ると、風が西のオフショアにスイングし、

波のフェイスが固まりだし、サイズも落ち着き出し、春の午後の光が淡井の海を照らし、

最高のコンディションへと変化していった。

右奥のライトも正面のライト&レフトもバレルアフターバレル!!

ノブもテッタもナオもマサルもここぞとばかりにゴーインオフ!!

オフショアたなびく淡井で陽が暮れるまで最高のセッションが展開されたのだ。

もし自分があの時のフライトに乗り遅れていたら、この波に遭遇することが出来なかっただろう。

つまり新島の波をスコアしたいなら、

早めに島入りしておかなければならないと言う鉄則が自分の中で出来上がった。

翌日もスティルパンピング〜今度は正面左奥の焼き場前あたりのサンドバーが大炸裂〜

ここでもハードなプルインの代償はブローキンボード、、、

結局皆が板を折ってしまうほどのヘビーセッションとなった。

そして徐々にサイズダウンすると、羽伏正面やヘリ下が頭くらいのチューブになり、

最後の水中セッションで取材の終焉を迎えた。

統計的にも羽伏の地形が決まるのは3〜5月の春先と言われ、

良い時は7月くらいまでバンクが持つらしい。

そして台風シーズンが来ると、

ローカルは島の西面に位置する間々下のレフトが覚醒するのが楽しみだと言う。

新島のサーフィンの歴史はシンシアンキこと故ミヤザワシゲルさんが発足した

レインボーサーフクラブと共にある。

また新島商工会会長でもあったトラさんこと故オオヌマトラオさんの尽力も忘れてはならない。

もっと古くにはウエマツキヨシさんと言う方が、新島で最初にサーフィンをしたらしい。

現在60代の第一世代には、民宿富八のトミタノボルさん、ヒロアンキことオオヌマヒロカズさん、

50代後半の第二世代には、栄寿司のミヤガワコウイチさん、ヨシベーのトミタヒロアキさん、

そして50代の第三世代には、新島初のプロサーファー・ウエマツシゲミさん、

元支部長のカマタカヒロさん、カマヤスアキさん、

ヤマモトハルキさん、ヒャクイサトシさん。

40代の第四世代には、今も毎日海に入っているハットリススムさん、

現レインボーサーフクラブ会長のキムラシゲルさん、

新島サーフスケートの会長・ウエマツリンタロウさん、現レインボー副会長のモリアツシさん、

東京から移住したプロボディボーダーのサトウアキコさん、富八の長男・トミタケイスケさん。

そして30代には、現支部長のオオヌマユウキ、弟のタクト、

トラさんの息子でプロサーファーのオオヌマユウスケ、

同じくプロのカセマサル、富八の次男・トミタユウヤ、くさや池太のイケムラリョウタ。

20代ではモリアツシの息子・アレン。

こういったローカルのサーファーが、ビジターを寛容に受け入れてきたことこそ新島の歴史であり、

どこにもない素晴らしい新島ローカリズムであると思う。

太平洋にポツンと浮かぶ新島には海から生のパワーが届き、

風はオンとオフがはっきりしシンプル極まりない。

何度でも言いたい!

あの羽伏の真っ青な海を見たら誰だって感動する、愛おしくなるはずだ。

初めてブルーハブシに出会ってから40年の歳月が過ぎても、

やっぱり新島の魅力・新島の魔法から醒めないでいる。

 

 

 

 

 

 

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