9/12 Osaka Day

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

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Tom Curren @ Curren’s  Miyazaki  Kyushu  Japan  1992

 

8月下旬から9月上旬にかけて、台風19号、20号、そして21号と、

三つのでかい台風によってビッグウエイブフィーバーとなった西日本。

中でも8月23日に台風20号のスエルによって、

10年ぶりとも言える大波が出現した宮崎のカレンズポイント。

そして同様のコースを辿った台風21号によっても、

9月4日の朝一のみ覚醒したカレンズ。

宮崎いや九州のビッグウエイブの聖地ともなったカレンズの歴史は、

26年前の9月・1992年にあの伝説のサーファー・トムカレンによってその扉が開かれたのだ。

では当時を振り返った手記をどうぞ〜

 

 

 

img348Tom Curren @ Curren’s  Miyazaki

 

 

宮崎にあるビッグウェイブスポット/カレンズとの出会いは衝撃的だった。

1992年・宮崎県で初のASPイベント、

宮崎プロサーフィンワールドチャンピオンシップが行われた時だ。

まだトムカレンとトムキャロルが火花を散らして戦っていた時代のことだ。

俺は宮崎のテレビ局の依頼で水中ビデオの撮影を任されることになった。

そしてコンテストは木崎浜でスタートされたが、

物凄いタイミングで台風がたて続きに発生し、

宮崎のコーストラインはどこもパンピング状態となった。

当然ビーチは軽くクローズし、宮崎のリーフが真価を発揮しだした。

コンテストはスープだらけの木崎浜から、

青島の子供の国に移動されたりしながら進行していったが、

試合の外で魅せる世界のトップサーファーのフリーセッションは凄まじかった。

内海のライト&レフト、鵜戸下のサッキーブレイク、

ザレフトのパーフェクション、ザライトのレジェンダリーウエイブ、、、

毎日毎夜が大セッションで、波もサーファーも狂った様にヒートアップしつづけていった。

内海のコンパクトなレフトではトムキャロルが波を切り裂き、

ライトの早めの波ではトムカレンがアーティーなラインでチューブをことごとくメイクし、

鵜戸下セッションではワールドクラスのサーファーでさえヘビーワイプアウトを強いられ、

板が3ピースにへし折れるなど、全ての歴史がひっくり返る勢いで日々が過ぎて行った。

まさに宮崎日本一!日本のタイフーンスエルここにあり~~てなモードだった。

そしていよいよ明日は台風大接近、さすがにどこもクローズアウトだろうと予想された日、

俺はかねてから狙っていたシークレットのライトハンダーへ、

当時若手バリバリのハワイアン・カイポハキアスを誘って3時間のロングドライブに出た。

果たしてそこには6プラスのスーパーパーフェクションがローリングしていた~~~

ロングドライブの疲れも吹っ飛び、長~い水中セッションをし、

カイポもこれほどの波が日本に存在することにソーストーク~~~

宮崎のホテルに連れて帰ると、その日丸一日クローズの木崎で出番を待ち続け、

結局自分の一つ手前で終わり、ただただフラストレーションだけが溜まった

ルームメイトのサニーガルシアが待っていた。

カイポが今日の波のことを嬉しそうに話しだすと、ますますサニーは不機嫌になり、

カイポに突っかかりだしたが、当のカイポは何をされてもご機嫌で、

ただ笑ってばかりいたことを思い出す。

その帰りに今日、内海の右奥のリーフでトムカレンが先に一人で入り、

それを見つけたトムキャロルとまだ小僧だったケリースレーターが、

驚愕のビッグウエイブセッションが行われたことを聞いた。

当時サーフィンライフのスタッフフォトグであった”ター”ことツチヤタカヒロ君も、

水中に入っていたとも聞かされた。

全く思いもかけぬ出来事で、どんな波?どれくらいのサイズ?どんなタイプの波???

想像がつかなかった。

ただそれを目撃した人達は、凄かった!でかかった!

あんなの見たことが無いと、皆口をそろえて言う。

その夜ロングドライブ、ロングセッションでかなりバテていたが、

なんか異常にテンションが上がったのを今も覚えている。

翌朝もスティルビッ~~~グ!!どこもクローズアウト!

昨日言っていた内海の奥のリーフを道路沿い正面からチェックしてみた。

鬼の洗濯岩の向こうに速めのライトが見えた。

ショルダーが張り最後はクローズ、つまりノーチャンネルだ。

どうやって出るんだろう?セットはどれくらいくるんだろう?

トムカレンはまたやるんだろうか?

と考えていたら、颯爽とトムカレンは登場し、

内海のライトとレフトの間のタイトなチャンネルから、

あっという間にパドルアウトしてしまった。

もうこうなれば何も考えることは無く、カレンの後を追う様に、

怒濤のカレントの海へカメラ片手に出て行った。

セット間のタイミング良く沖にはすぐ出れたが、

堤防に吸い寄せられる流れでなかなか奥のポイントに辿り着くことが出来なかった。

それでもいち早くラインアップに着きたい一心で猛パドル、

すぐ後ろにはフォトグ/ター、それにトムキャロルとケリースレーターもいた。

ようやくこのへんかな?というフォトポジションに着き、

ターに昨日の事を聞いてみると、昨日はもっと荒れていて、

この位置では撮影できないくらいだった、今日の方がクリーンで綺麗だと言う。

やはり昨日はストーミーコンディションの中でのセッションで、

今日は台風一過の秋晴れ、オフショア、

そしてセットは10フットオーバーのザデイとなったのだ。

トムカレンは長い板の持ち合わせがなかったため、

ウイリーバードサーフショップに行って、コウツサのお古のガンを持ち出し、

トムキャロルは確か6’5”くらいの板でやってきた。

この年トムキャロルの下でツアーの勉強をしていたケリースレーターが、

一番長い板を持っていたのだが早々にリーシュが切れ、鬼の洗濯岩に打ち上がる羽目となった。

トムキャロルは板が短いのでセットの波には手を出さず、

手前の波をたしなむ様に乗っていたのに反し、

トムカレンは数は乗らないもの、確実にセットの波だけに集中していた。

タイフーンスエルの撹乱によって内海は茶色く濁っていたが、

眩しい程の太陽が降り注ぎ、カレンがセットの波に漕ぎだすとシルエットとなり、

カールの中は茶黒いが、カールから離れるとカレンならではの美しいフォームが波と一体化し、

ビッグウエイブのナーリーさより、まるでファンタジーな世界にいるような気分にさせられた。

そしてカレンの乗った最後の一本は、

日本サーフィン史における新たなビッグウエイブストーリーの始まりとなった。

こうして2日間の内海アウトサイドセッションが終わり、

やがてこのポイントはカレンズと呼ばれる様になった。

コンテスト中、カレンは内海の全貌が見える高台の家に住み、

この時カレンのケアを全面的にしていたカリフォルニアのキトーさんにも、

ここに住みたい、ここに家を持ちたいと話していたくらい内海の湾が気にいったのだろう。

そして高台から望む内海の地形が頭にインプットされ、

スエルの向き、大きさによってカレンは、

内海のどこでサーフすべきかを理解していたとしか思えない。

クローズアウトの木崎浜で行われたヒートでは、

カレンは一本も波に乗らず、無言の抗議をしているようだった、、、

いやそれよりもいち早く、内海に戻ってサーフしたかっただけだったのかも、、、?

このように数々の伝説を残した、1992年の宮崎プロ、宮崎の海、、、、

あれから26年近い歳月がたち、今ではカレンズは宮崎のビッグウェーバー達の聖地となり、

毎台風ごとにセッションが重ねられている。

そしてあの宮崎のワイルドな海岸線には、

第2、第3のカレンズ級のポイントが存在していることも事実なのだ。

 

 

 

A63I9092 A63I8631 A63I8795@ Curren’s  Miyazaki    Sep 4th  2018

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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