☆加藤のウラナミ『ラハイナから能登半島に心寄せて』

☆加藤

☆加藤
会社代表であり、波乗りと海が大好きなサーファーです。子どもたちに安全安心な海を残すことと、島国などへ高精細な気象情報を提供することを残る人生のライフワークにしました。サーフトリップネタが多くなりますがお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。

白馬を流れる松川と白馬連山との素敵なコラボレーションGOOD.jpg縮小

長野県白馬村を流れる松川から白馬連山を望む。山の向こう側の輪島町までは直線距離で約130kmと近いのですが…

改めまして、皆さま本年もどうぞよろしくお願いいたします。
いま私は長野県白馬村にあるスターバックスでこのウラナミを書いています。

白馬連山の見事な景色が見られるスターバックス白馬店のテラスより。光の角度によって山のカラーが映りゆくのも魅力です。

白馬連山の見事な景色が見られるスターバックス白馬店のテラスより。光の角度によって山のカラーが映りゆくのも魅力です。

昨年8月8日に発生したマウイ島ラハイナの大火からわずか半年後の今年1月1日元日の午後4時10分に、石川県能登地方を震源地とするM7.4、最大震度7(志賀町)の大地震の発生と大津波の襲来、そして大火による輪島町の焼失が起きようとは誰も予測できなかったと思います。しかも、一年で一番日本国民がおごそかに過ごしているであろう元日夕方の大地震発生です。被災地の住民の皆さまの驚愕ぶりは、我々には到底想像すらできないとんでもないものだったと思います。

私の年末年始は、大晦日に慌ただしく自宅のガラスや庭などの掃除を済ませ、紅白歌合戦を見つつ年越しそばを食べ、たまたま元日から波があったので気合を入れて日の出前からパドルアウトして地元サーファーと海の上で新年の挨拶を済ませました。
今年のご来光はとてもきれいで、手を合わせて「今年もどうぞ海難事故が1件でも少なくなることと、1年を通しての無病息災」をお祈りさせていただきました。
帰宅して家族と新年の挨拶をしつつお雑煮を食べて、その後は長女ファミリーと次女ファミリーが加わり、孫4人らと共に元旦恒例の氏神様である長谷の権五郎神社(御霊神社)に初詣に行きました。
孫二人がおみくじで大吉を引き当て、「グランパはおみくじやらないの?」と小学4年生の孫の女の子に聞かれたので、ちょっとスカして、「グランパは、神を尊び神に頼らず流、なんだよ」(宮本武蔵)と答えたら、「なにそれ?」って簡単にあしらわれて凹んだのでした。(涙)
でも、数時間前に初日の出に手を合わせて、海難事故防止と身体安全をお祈りしたばかりだったので、孫にあしらわれるのも仕方がありませんね。(笑)

帰宅後は、孫からの料理のリクエストが手巻き寿司だったので、皆でいつもよりネタが上質の手巻き寿司をいただき、さらに大人には御成通りで友人サーファーが営む高崎屋本店で買っておいた宮城県の銘酒「浦霞(うらがすみ)」をくびぐびと喉をくぐらせつつ、孫らと賑やかに明るく楽しく過ごしました。

午後3時になっても波が残っていて酔いもさめたので、2ラウンド目のサーフィンに向かいました。新年早々2ラウンドサーフィンできるとは、昨年・一昨年は良い波、特に台風スウェルが少なかったので、今年は波がありそうで幸先良いなと思っていました。
朝は胸肩サイズの波があったものの、残念ながら夕方はセットでも腰あるか無いかまでサイズダウンしてしまっていたので小一時間サーフィンして早めに上がることにしました。
そうして帰宅したら義理の息子と玄関前でばったり会って、「大変です。能登半島で大きな地震が発生して津波の心配もあるそうです」との能登半島地震の第一報を聞いたのでした。
通常、海の上でも地震の振動を感じるものですが、藤沢が震度3だったのと、たまたまパドルアウトしていたのか、全く地震の振動には気が付きませんでした。
これまでに船釣りしていた時とサーフィン中に地震による振動を感じたことがありますが、思いのほかはっきりと感じられるものです。
その後は、TVから刻々と伝わる被災地の被害状況や、波伝説による波情報や津波情報などを確認しつつ、波伝説の現地リポーターさんの安否確認や被害状況の確認などを進めました。

阪神淡路大震災は1995年1月17日午前5時46分に発生していますが(M7.3、神戸市などで最大震度7)、その日のうちに私は災害救援を決めて、当時の波情報のダイヤルQ2の更新を一週間お休みさせていただき、夜には七里ガ浜を出発して発生から48時間以内に神戸市永田町の県立高校(避難所)に入って、その後一週間骨折した老人の病院搬送やお弁当の配布などのボランティア活動を行い、最終的に神戸市の職員とともに避難所の運営委員会的なものを構築しました。

また、東日本大震災では福島原発の放射能による影響を考慮して出発を少し遅らせましたが、南相馬町の病院で入院患者の搬送を手伝ったのちに岩手県から入って少しずつ南下し、各地のリポーターさんを1軒1軒訪問して色々と地震や津波の状況や避難所の様子をお聞きし、最終的には千葉県までのすべてのリポーターさんに、お見舞いをお渡しつつ、必要に応じてハイエースに積み込んだガソリンや食料をお届けすることができました。
その後は、社内の体制をしっかりと整えたのち、釜石市の教会をベースキャンプにさせていただき、現地にハイエースを置きっぱなしにして、社員は夜行バスによる2泊3日の交代で、一カ月間救援物資を市内のすべての避難所へ搬送する業務を自衛隊とともに行いました。

それらの弊社の災害救援活動をご存じの皆さまは、そろそろサーフレジェンドは能登半島の被災地に向かっているのではと思っていただいているかもしれませんが、大変心苦しいのですが今回はしばらくの間は自衛隊などのプロの組織にお任せることにしました。
というのも、たまたま一昨年5月に家内と能登半島に観光旅行をしていましたので、能登半島内の様子、特に道路事情については狭くクネクネしていて、幹線道路以外にう回路が少ないこと、そして地形的に脆弱であることを把握していたのです。
結果的に、今回の大地震でそれらの幹線道路のほとんどでがけ崩れや土地の隆起(4~5m)による大きな被害が発生し、その多くが通行止めになっているため、我々一般車両が行っても迷惑になるばかりか、我々自身の危険も考えられたからです。
当初は1月10日から白馬にスノボーにいく予定だったので、何かあれば現地に急行することを考えていましたが、新年4日の仕事始めの会議において、最終的に現地の復旧が落ち着くであろう春ごろに現地のご挨拶させていただくことにさせていただきました。

ラハイナの悲劇が日本の輪島町でも起きようとは、しかも元日夕方に大地震による建物倒壊と津波襲来のあとに起きようとは「災いは忘れるころにやってくる」のことわざ通りですが、日本中が不意を突かれた感があることは否めません。
まだ救助活動の評価をするのは時期尚早ですが、そのような元日に発生した大災害にも関わらず、今回の自衛隊の出動の速さをもっとメディアや我々は高く評価すべきと思います。

本来自衛隊の災害救護活動は都道府県知事の出動要請に基づくものです。
しかし、阪神淡路、東日本大震災の経験を経て、当該自治体も被災者であり、通信環境も限定的となり(防災無線のみ)、正確な被災状況の把握が困難であるためにどうしても自衛隊への出動要請が遅れることが分かっていました。
よって、今回は自衛隊が独自の情報から判断して災害救護活動のGOサインを出したのです。当日の当直士官の胸中を考えると、「元日に家族とおごそかに過ごしている自衛隊員に非常招集を掛けるのは忍びない」と考えても無理はありませんが、たとえ元日の緊急出動が空振りであっても、国民の命を守るため、救命するために出動命令を発したのだと思います。私はこの当直士官の早期決断が、決して少なくない被災者の救命につながったと思います。阪神淡路大震災の時とは大きく異なる点です。
消防、警察以外にも、電気、水道、ガスなどのライフラインの復旧に従事するための緊急応援作業部隊が、全国の企業から派遣されています。
それらの皆さまにおかれましてはお正月休みどころではなく、本当に心から感謝申し上げると共に、無事にミッションを成し遂げられて無事家族のもとに帰宅できることを心からお祈り申し上げます。

結びとして、亡くなられた犠牲者の皆さまのご冥福を衷心よりお祈りし、ご遺族の皆さまにお悔やみ申し上げます。また、避難所に身を寄せ、また二次避難所に移られた被災者の皆さまが一日も早く平和で落ち着いた日常の暮らしに戻れますよう、また風光明媚で海の幸が豊かな能登半島の被災地が一日も早く復興できますことを心からお祈り申し上げます。(了)

最近の記事

関連する記事