Legendary Ride Riaru Ito

Naoya Kimoto

Naoya Kimoto
サーフィンフォトグラフ界の巨匠、重厚なショットが魅力のKINこと木本直哉。 16才でサーフィンを覚え、20才からサーフィンフォトグラフィーの道を歩みだす。1981年から冬のハワイノースショアに通いだし、現在も最前線で活躍中。

スクリーンショット 2024-04-26 5.57.51

Riaru Ito @ Teahupoo Tahiti French Polynesia  2022/6/24 11:34 am

 

これは宮崎県日向市小倉が浜の目の前にあるディアサーフに飾られた

クィックシルバープレゼンツによる大きな看板の写真だ。

この写真はオイラのお気に入りショットの一つで、

この時の旅自体がミラクルで信じられないレジェンダリーライドが生まれて行ったのだ。

 

 

(昔の手記より)

1991年、記念すべき、初めてのタヒチに行ったときのお話~~~

当時の俺のファイナルディスティネーションだったサウスアフリカ/ジェフリーズベイにも行き、

その勢いでヨーロッパにも足を踏み入れ、次なる旅の地を模索していた頃だ。

サーフィンマガジンのフォトグ/ハンクのカバーで、

ハワイのグーフィーフッター/エリックバートンが、今迄見た事も無いテイックなリップ、

病的な底掘れしてるレフトのバレルショットを見かけた。

今で言うチョポの波だが、当時はまだまだシークレット的な存在で、

クレジットも”エンドオブザロード”としか書かれていなかった。

やや遠目のアングルだったが、異常な波の形が脳裏に残るショットだった。

次に衝撃的だったのが、やはりサーフィンマガジンで特集された、

ジェフホーンベイカーの写真だ。

そこには、ロスクラークジョーンズやタイタスキニマカが、

今度はバカッ掘れのビッグライトハンダーにチャージしてる模様が、

シャープに映し出されていた。

これも後でわかったことだが、チョポ近くのヴァイラオのビッグパスのライトの波だそうだ。

恐るべしタヒチ、ビューティータヒチに本気で行ってみたいと思う様になり、

タヒチのコンタクトを探していたら、丁度試合で日本に来ていた、

タヒチアンのポト(ベティアデヴィット)が、

俺の兄貴(モアナデヴィット)がタヒチでサーフツアーをやってるから連絡しろと教えてくれた。

早速言われるままタヒチのモアナに連絡するも、時差を考えないで、

向こうの早朝に電話しちまった~~(まだメールとかやってなかったアナログ時代)

話を聞くと、一泊/一人$100で朝夕食付き、海へのトランスポートも付いていた。

タヒチの屈強な波に向けてのメンバーセレクトで、

セキノサトシ、ヌマジリカズノリ、ウシコシミネトウの3人を連れて行く事になった。

出発直前でサトシのパスポートが切れているのが判明し、(あちゃ〜〜)

サトシは新しいパスポートを作り直すため遅れて来る事に成った以外は全て順調で、

無事初めてのタヒチに到着した。

パペーテ空港を出るとおっかない顔したズングルムックリの兄ちゃんが’近づいてきた。

これがモアナとの出会いで、以来長年に渡りモアナツアーを使う事なり、

タヒチトリップにおいては全て身を委ねた存在でもあった。

パペーテ近くのタアプナの山の丘にモアナの家があり、

一階のガレージをゲストハウスに改造し、二階にモアナファミリーが住んでいた。

つまり食事は家族と一緒に取り、海に行くときはモアナのトラックに板、カメラ、荷物を積み、

更にディンギーを牽引して、山の上から驚異的坂道を下って行くのであった。

初日からすぐに出かけ、まずは近場のタアプナでやることになった。

ディンギーをボートランプから降ろしラグーンを抜けると、

鮮やかなタヒチアンブルーウォーターワールドが広がっていた。

岸からパドルすると20〜30分はかかる遠さなので、

ディンギーは必要不可欠なものなんだとすぐに理解できた。

まずはタアプナの2~3フィートながらクリンクリンに巻いたレフトをサーフ。

ディンギーはパスにアンカーを打ちモアナも自らサーフ、これがまたうまい!

デブリンの割にはクィックモードのラジカルアクション、

更にリーフを見切ったチューブがうめ~~

多分当時タアプナでは一番うまかったんじゃないかな、、、

俺もディンギーから海に飛び込み水中撮影をしていると水の透明度が半端なく、

潜ったときのリーフやサーフボードの動きがくっきり見えるのには心底感動した。

波もいい、天気もいい、水も暖かい、ローカルもフレンドリー、ディンギーは楽チン、

皆で最高だね~と笑みが絶えなかった。

たっぷり1ラウンドサーフし陸に上がると、モアナは再びディンギーをトラックに装着し、

車を走らせ、更にダウンサウス〜〜

途中フランスパンのサンドウイッチを頬張りながら、

オールドハワイを感じさせる緑豊かな景色の中を1時間以上走ったかな~~?

道のドンツキに車を停め、遠くパスの横でブレイクする波をチェックしだした。

正直遠くて何だか良くわからん、、、サイズもブレイクも、、、

しかしモアナはここが良いと言ってディンギーを降ろし始めた。

着いたばっかの時差ボケに長いファーストラウンドでかなりへばっていたが、

いざ沖に出てみると先にやったタアプナどころではない。

波のサイズ、厚み、チューブクオリティ、全てに迫力があった。

そしてここがチョポ(エンドオブザロード)だと教えられた。

一般的にはテアフポとかチョプーとか言われているが、

ローカルが喋ってる言葉をそのまま言わせてもらえば”チョポ”なのだ。

これがあのエリックバートンが乗っていたエグイレフトか~と水中に入ろうとしたら、

モアナがボートから撮れという。

これまでにそんな経験のなかった自分だったが、チョポではモアナの絶妙な運転で、

水中同様いや水中以上のカメラアングルで、波の真横から撮影できることを知った。

気怠い午後のセッションも一気にテンションがあがり、

このチョポファーストサーフで全員がチョポの虜になったのは言うまでもない。

帰りの車の中ではヒナノビールを飲みながらチョポ談義に鼻が咲いた。

家に帰ってもチョポチョポ、朝になってもチョポチョポ、タアプナ行ってもずっとチョポチョポと、

皆で口ずさんでいたような気がする。

こうしてタヒチファーストトリップで出会ったチョポ詣でから、早30年以上が過ぎた。

時の流れと共に今や世界のチョポ、CTイベント、トゥーインのプッシュザリミット、

まさにスペクタキュラーウォーターワールドの最先端を示す場所として、

世界中からいつも注目される存在と変化していったのだ。

 

 

1991年から始まったタヒチ詣では毎年欠かすことなく20年近く続き、

タヒチ島のみならず、環礁の島々・ツアモツ諸島へのボートトリップまで広がっていった。

しかしやがてサーフィンワールドからサーフファーストの輝かしい雑誌時代が翳りだし、

SNS時代に入っていくと物価の高いタヒチとかに旅するのが困難になり出してきた。

ハワイやインドネシアには相変わらず通っていたものの、

徐々にタヒチから足が遠のいていった、、、

そんな中、世界のメディアでは益々タヒチ・チョポがフューチャーされ、

驚愕的な波が毎セッション更新され、写真や映像が発信されていった。

行きたいけど行けないジレンマの中、ようやく理解あるスポンサーの方がサポートしてくれ、

久々とも言えるタヒチ・チョポトリップを敢行したのが2014年のことだった。

雑誌サーフファースト最終号の取材で行った2010年以来だったので

実に4年ぶりのタヒチトリップ、SNS時代に入ってからは初めての出来事だった。

メンバーは当時の精鋭部隊・ワキタ、ショウタ、ケイト、タツヤ、シュン、レオの6名。

モアナは既にサーフツアーのビジネスから手を引いていたので、

チョポ近くの海辺の宿に泊まり、毎日キャプテン・シンディさんがお船で迎えにきてくれ、

とにかくチョポチョポチョポ三昧の素晴らしい旅となった。

その模様はDVD波巡礼のハイライトコンテンツともなったほどだった。

ワキタと話していたら、やっぱノースは絶対に欠かせない所だけど、

チョポも毎年来なければダメですよね〜と語ってくれた。

でもやはり船代がバカ高いのでそう簡単には行けないのが実状だった。

その後またまたタヒチから遠のいていった、、、、

 

 

 

今度は8年の歳月が流れ、オイラも初めてのタヒチから30年以上がたち62歳のジジイとなったが、

近年パイプでドミネイトしてきたイトウリアルやマツナガダイキ等を

どうしてもチョポを経験させてあげたかった。

彼らがどんなサーフィン、どんなチューブパフォーマンスを発揮するのか見てみたかった。

ノースにいる時に誘ってみた時はリアル以外は鈍い反応だった。

それもそのはず、チケット代、宿代に加えて船代も割り勘自腹で資金繰りが大変だったのだ。

それでもサーファーとしては行きたいというデザイアーが強く、リアル、ダイキが決まり、

当時まだ15歳だったマツナガケンシンも未来を感じて誘い、最後にアズチゲンの参加が決まった。

全員初めてのタヒチにワクワクドキドキ、ハワイアンエアーで一旦ハワイ入りし、

俺とマエダ(ビデオ担当)がハワイから合流し、再びハワイアンエアーでタヒチへと向かった。

既にモアナはずっと前にサーフガイドから手を引いていたので、

当時モアナのパートナーであったクリス(CTビラボンプロ時代のコンテストディレクター)の

セッティングで、チョポのあるエンドオブザロードの裏手にある

サイモン(オージーレジェンドボディボーダー)の持ち家(3ベッドルーム)にステイし、

翌朝からフレンチながらもう20年以上もチョポに住んでいるラスカル(マイケルボーター)の船で

チョポチョポチョポの生活が始まった。

ライフルーティンは至ってシンプル、朝5時頃起床、お決まりフランスパンのサンドイッチ朝食、

6時半から7時には玉石ビーチから船に乗り込み、午前中は船での休憩をとりながらサーフサーフ。

ランチブレイクで一旦陸に上がり、2〜3時間休みをとり、また午後から夕方セッションに突入、

夜ももちろん自炊で、滞在中ただの一度も外食することはなかった。

バーベキュー系は焼きの達人・マエダ君が担当してくれたが、

通常は俺監修の元、ボーイズが不器用ながら一生懸命作ってくれた。

特に全員で持ち込んだ日本米をこの2週間どう配分するかが難点だった。

とにかくボーイズの食べる米の量が半端なかったからだ。笑

結論から言うと、2週間トリップを1週間伸ばしたこと、

予想以上に米の消費が激しかったことから、現地のロングライスをブレンドして凌いだ。笑

ボーイズなりに一生懸命やってくれてたのはいいが、やっぱ不可解なことが多々あり、

例えばリアルにレタスを切っといて〜と頼めば、まさかの白菜を切っていたとか、

仕方なくその白菜を浅漬けにしてビニール袋に入れ、ゲンに冷蔵庫に入れておくように指示すると、

ビニールの開き口を閉めずに冷蔵庫に入れ、汁が全部こぼれ落ちてしまったりとか、

せっかくの生ハムをケンシンは炒めてしまったりとか、

ある日、ダイキは股関節上部のリンパ腺の所に筋肉痛の薬を塗りたくっていたので、

どうしたの?って聞いたらコリコリのところが痛いのでアンメルツを塗ってましたと、、、

あの〜〜それってリンパ腺が腫れているんだよって教え、足の裏を見たら、

チョポのリーフで傷ついたところが膿んでいたので、すぐにお医者さんに連れていったりとか、

まあ色んな事がありながらも、皆で楽しくチョポライフを満喫していった。

当初6月4日から18日までの2週間トリップだったが、翌週がエクセレント予報となってきたので、

皆にもう1週間伸ばさないか?と提案したところ、リアルとマエダは即オケ、

ゲンも親の承諾を得てオケ、ダイキとケンシンはやはり滞在延長するとお金がかかりすぎると、、、

宿は幸いにも延長オケ、船も延長オケで更に使わなかった日の分を後にまわしてくれる事になった。

チケットの延長もスムースに行き、足りない分は皆でなんとかしようとなり、

ダイキ&ケンシンもエクステンションを決め、プレイフォーサーフの一念で残りの日々に賭けた。

ここまででも充分すぎる良い波でやってこれたが、求めていたのは背筋が凍るようなあの波だった。

まずは当初の予定だったラストデイ・6月18日にビッグスエルは来襲した。

天気はアグリー曇天雨、風もドヨーンとしてよろしくないが、波は6〜8プラスのモンスター。

ボディボーダーでさえややお手上げ状態のストーミーコンディションの中、

リアルは一本目の波で貴重な板を折ってしまい戦意喪失、、、

残りの1週間あと一本しかなくなってしまった。

この日はダイキ&ケンシン・マツナガブラザーズの狂気とも言えるチャージが光った。

いよいよ日本人も天下のチョポで世界レベルのチューブパフォーマンスを見せつける事ができた。

本来ならこの日を持ってタヒチトリップは終了だったが、

既にもう1週間滞在延長をセッティングし終わっていたので、

今日のような荒れ狂ったチョポで怪我をしたり板を折っても嫌なので午前1セッションのみとした。

翌日からスエルは一旦ダウンし、スモールデイはあえて船を使わないようにしてザデイに備えた。

そして波予報通り、6月22日の午後からスエルがフィルインしだしてきた〜〜〜

そしてそして翌6月23日からタヒチを去る6月25日までの3日間チョポのミラクルデイズが続いた〜

全員がこのスエルで全てを出し切るぞと気迫に満ち溢れていた。

いつもより早めの6時から6時半には船に乗り込み、朝陽が差し込む前にはラインアップに入り、

人のいない間にツルツルピカピカの波を乗り込んで行った。

ファーストライトが波のフェイスを差し込むと更にバレルがシャープになり、

雲一つないゴージャスウエザー、ヴァリーからそよそよ吹くオフショア、

サウスポイントからパーフェクトにブレイクしウエストエンドボウルで大きく口を広げる。

この世のものとは思えない自然の織り成すアーティスティックな波、色、躍動感、、、

そんなスペシャルなチョポの中でもベストオブベストとも言える6月24日、

この日に限ってラスカルはどうしても他のグループの仕事が入り、

俺たちは急遽テレバデヴィッドの兄・ドレーンスの船でチョポに向かうこととなった。

ドレーンスやテレバはかつてモアナの家に泊まっていた頃まだまだキッズで、

家の庭でよく遊んだ仲だった。

この日は更に早く出航し、まだ誰もアウトにいない時間帯から入り、

まさにそこからノーバディのエピックチョポセッションを数時間味わう事ができたのだ。

ドレーンスも初めて日本人のチョポアタックを見て心底感動し、

彼らのサーフィンはネクストレベルだと大絶賛していた。

ダイキの短めの板からのピキピキテイクオフ、ディープゾーンからの捻じ込みプルイン、

チョポの生き物のようなバレルの中を熱く激しいトリミングで加速し、

ぽっかりと開いたウエストボウルでスピッツアウトには大歓声。

ケンシンは滞在中の日一日、エブリセッションでの一本ずつを体で会得し、

学習して見違えるレベルアップしていく姿は感動モノだった。

ゲンも四国の河口でノースで培ったスキルをチョポで存分に発揮し、

自らの殻をぶち破る成長を成し遂げた。

そして、神の子として幼少の頃から宮崎で注目を集めていたリアルも、

ウエスタンオーストラリア、メキシコ・プエルトエスコンディード、

何よりもノースショア・パイプライン等の経験を経て、

いよいよ世界最高峰とも言えるレフティ・チョポに辿り着いた。

そしてここまでのチョポでも、ここがリアルのホームブレイクかのような

フィット感、カジュアル感でセッションをリードしてきた。

リアルの凄いところは、乗る波乗る波全てが大スピッツアウトとなることだ。

そう言う波を選んでいるのか、そうなるのかはわからないが、

チューブが深かろうが浅かろうが、白の煙幕と共にカミンアウトしてくる姿は、

神々しく小さな大魔神のようだった。

このクィックシルバーの大看板に使われたショットは、

まさにそんな数多いチューブライディングの中でも、最も芸術的なモーメンツだったと言える。

雑誌が衰退し、スマートフォンの小さな画面でスルーされていく今の時代の中にあって、

こうして撮影されてから約2年越しに大看板となって、多くの人に見ていただけるなんて

サーファー冥利、カメラマン冥利に尽きるってもんだ。

そのチョポに今年もNSA強化合宿として5月4日から2週間、

オリンピアンのイナバレオ、マツダシノとで再びタヒチに向かう事になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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