【OMツアー丹野代表のコラム】 インドネシア・サーフサンクチュアリ 回顧録 Vol.7

ロジ全景

回顧録 VOL 7. 西ジャワ(デング熱)

1997年、私は某サーフィン雑誌の取材で西ジャワのプラブハンラトゥという港町にあるチマジャにいた。

チマジャはボトムが玉石の為、リーフブレイクと同じく地形が変わることがなく毎日レギュラーの波が規則正しくブレイクしていたのを鮮明に覚えている。

ある日、編集兼ライダーとして参加していた赤井氏が岬の突端にバレルを形成する長いレフトがある事をローカルから聞きつけそのローカルをガイドにショートトリップを敢行することになった。

先ず最初にチェックしたポイントはオンバックトゥジュ、日本語訳にすると「七つの波」でインド洋の深い海を渡ってきたウネリが岸近くの大きな丸い岩盤の上で急激にそそり立ちAフレームを形成し巨大な波となるらしい。

かつて、リップカールインターナショナルチームのボートトリップに参加していた日本の絶対的チャンピオン”久我孝男プロ” がここで大怪我を負っている。

我々が目にしたのもまさしく三角の山が沖合から押し寄せ、岸近くで爆発的に炸裂している姿であった。

一同、目配せだけでお互いの心中を察知し、オンバックトゥジュをスルーして目的地のタートルズへ移動。

ombak tujuh

オンバックトゥジュから小一時間、そこには絵に描いたようなパーフェクトなレフトがリズムよく割れている。

レギュラーのチマジャに飽きていたので、レフトハンダーの赤井氏は水を得た魚のごとく波に乗りまくった。

当初、日帰り予定であったが、夕方になってもウネリは続き、明日もギャランティは明らかであった。

タ-トルズ

稲村ケ崎の重鎮、T氏の”今日はここで泊まりだな”の一言に異を唱えるものは誰一人いなかった。

急遽、周辺で宿探しとなる。

すると何やら”MAMAS LOSMEN”と書かれた古びれた看板が目に入ってきた。

フロントらしきものも無いが大声でハローと叫ぶと奥の方から高齢の女性が現れた。

今晩、宿泊出来るかと尋ねると即座にOKサインが返ってきた。

宿も半分くたびれた感じで勿論ホットシャワー、エアコンはなく、水シャワーとファンが辛うじてあった。

壁も隙間だらけで、一晩中蚊と戦い続け睡眠不足で少し頭が痛い。

それでもママは親切で優しく、美味しい朝食も振る舞ってくれた。

肝心の波は予想通り早朝から素晴らしいコンディションでここに留まった判断は大正解であった。

その後、チマジャに戻り取材の写真も十分に揃ったところで帰国となった。

cimaja main

帰国して3日目、なんだか寒気がする。

ん、風邪?

念のため、薬を服用。

翌朝、普段と変わらず元気。

しかし、午後になるとまた寒気というより悪寒がする。

体温を測ると38度近い。

風邪薬を再び服用するも熱は下がらず。

翌朝、あれ、熱が下がってる。

しかし、インドネシア秘境からの帰国、しかも、大量の蚊の洗礼を受けていたので質の悪いウイルスにでも感染していたら大変だ!一抹の不安がよぎったので念のため病院へ。

事情を説明すると「マラリアの疑いがあるので血液を採取して検査してみましょう」

ゲゲゲ!一瞬耳を疑った。マラリア?まさか!

翌朝、またまた熱は下がっていたが夕方からの発熱に備え大事をとって会社は休みを取った。

そして、予想通り夕方から熱が上がりはじめ夜中にはガタガタ震えるほど極度の寒気に襲われる。

翌日も熱は下がらず、いよいよマラリア感染か?

しかし、血液検査の結果、マラリアウイルスは検出されなかった。

症状が出てから5日目。熱も下がりはじめ、身体が少し楽になり食欲も出てきた。

翌日、未だ微熱はあるが普段の生活が出来る状態まで回復。

7日目、熱も下がり日常が戻る。

結局、診断結果はデング熱でした。

当初、デング熱は発症の3日目くらいから熱が上がり、4日目、5日目にピークを迎え40℃位まで上がるケースもある。

6日目に少し楽になり、7日目に一気に回復。

と当初は1週間で完治する典型的な症状が報告されていたがその後、日本の代々木公園やニューヨークなどでも流行、バリでも現地駐在員が次々と感染した頃からウイルスが変異したのか、10日、2週間、人によっては1ケ月近く苦しんだという報告も入っている。

ここ数年は殆ど聞かなくなっているが絶滅したわけではないので油断禁物。

日本列島は今まさに夏を迎え蚊の活動も活発になっている。

この日以来、蚊対策には常に細心の注意を払っている。

備えあれば憂いなし、皆さんもご用心を。

おわり。

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