米山予報士のウラナミ『予報士までの道のり~その1~』

米山予報士

米山予報士
米山予報士/大学を8年で卒業。その間、勉強などせず、山と海で遊ぶか家に引きこもっていました。当然、就職などまともにできるはずがなく、社会人経験もゼロ。なのに30歳になってしまいました。ただ、山のおかげで天気図に興味をもち、サーフィンをやっていたから気象予報士になれたと思います。サーフィンと気象、波情報の業務を精一杯頑張りたいです。

yone

最初に興味を持ったのは大学2年の時。1年時を一週間くらいしか学校に行かず、迷走の日々を送っていたときだった。

部活をやれば行くようになるかと期待し、4月からワンダーフォーゲル部、通称「ワンゲル」に入部した。最初はなめていたが、結構きつかった。

トレーニングは週4回、一回一時間程度だからさほど問題なかったが、荷物を背負って8時間くらい山を歩くのはかなりしんどい。

特に、今の梅雨の時期は錬成合宿といって、南アルプスを30~40kgのザックを担ぎ、一週間くらい縦走するのでハードだった。瞬間的に苦しいのではなく、ジワジワとした嫌な苦しみ方だった。

それなりに厳しい部活だったので、やることはきちんとやっていた。合宿に行く前には遭難対策、食料、気象、トレーニングなど係りを割り当てられ、準備をしっかりやり、事故を起こさぬようにつとめた。

山に行く前には天気図を書く練習をさせられた。「NHKラジオ第2放送」で気象情報が流されるので、それを聞きながら天気図帳に高気圧や低気圧、各地の天気や等圧線を書き込んでいく。

小・中・高の授業中はマンガ・飯・寝る日々だったので、理科の授業などのことを覚えているはずもなく、天気図を書くのは人生で初だった。

苦労したが、幸い、周りに天気マニアはおらず、似たような仕上がりになるので、さほど恥ずかしい思いはしなかった。

そして、毎晩のようにラジオを聞き、天気図を書いていると、誰よりも滑らかな線を引けるようになっていた。

天気図を書く作業はスポーツに似ていた。何回も何回も繰り返し、その都度、なにが良かったのか、悪かったのかを検証し、また、繰り返しているうちに、いつのまにかできるようになっている。

幼いころからサッカーをやっていた自分には合っていると思った。それが気象との最初の関わりだった。

つづく。

最近の記事

関連する記事